大判例

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大阪高等裁判所 昭和55年(行コ)52号 判決

控訴人

塩見日出

右訴訟代理人

松本晶行

阪本政敬

池上健治

千本忠一

川崎裕子

吉川実

桂充弘

竹下義樹

被控訴人

大阪府知事

岸昌

右指定代理人

田中治

〈外六名〉

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  控訴人

原判決を取消す。

被控訴人が控訴人に対し昭和四七年八月二一日付でした国民年金障害福祉年金裁定請求却下処分を取消す。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二  被控訴人

主文同旨

第二当事者の主張

1  当事者双方の主張は、次に付加するもののほかは原判決事実摘示のとおり(但し、原判決二枚目表四行目から五行目の「(以下単に法という)」を「(昭和三四年法律第一四一号。以下単に法という)」と、同表五行目の「障害年金」を「障害福祉年金」と、それぞれ改め、三枚目裏一行目の「右改正後」の次に「難民の地位に関する条約等への加入に伴う出入国管理令その他関係法律の整備に関する法律(昭和五六年法律第八六号。以下「整備法」という)による改正前」を付加し、二〇枚目裏二行目の「障害年金」を「障害福祉年金」と、二三枚目裏六行目の「基本としてのは」を「基本としているのは」と、同裏一三行目の「採用するになつた」を「採用することになつた」と、二四枚目表六行目の「福祉年金」を「障害福祉年金」と、それぞれ改め、二八枚目裏三行目の「何十年たとうと、」の次に「国民皆年金的状況、即ち」を付加し、同裏一〇行目の「障害福祉年金は、」を「障害福祉年金については、」と、同行目の「法八一条の」を「法八一条は」と、二九枚目裏一行目から八行目までの全部を「右に述べた障害福祉年金の趣旨、性格からすると、右福祉年金は法の別表の廃疾の状態にある障害者には国籍の如何を問わず支給さるべきものであるから、外国人、殊にいわゆる在日朝鮮人である障害者にその支給をしないことは、憲法一三条、一四条一項二五条に違反するものというべきであり、また右福祉年金を一般の日本国民には支給しながら、控訴人のように帰化によつて日本国民となつた者に対して、帰化した後にも、帰化前の過去の国籍を理由として、これを支給しないことは、憲法の右各条項に違反するものというべきである。」と、三〇枚目表四行目の「救貧」を「救貧的」と、それぞれ改める)であるから、その記載をここに引用する。

2  控訴人の当審における主張

(一)  在日朝鮮人の立場の特殊性

(1) わが国の在日朝鮮人に対する処遇の変化

(ア) 在留外国人統計によれば、昭和四九年四月一日現在の在日朝鮮人の数は、六三万八八〇六名であり、これは在留外国人全体の86.2パーセントに達する。

このように多数の朝鮮人がわが国に存在することになつたのは、明治四三年の「日韓併合」と太平洋戦争の終結まで継続された「大日本帝国」の朝鮮植民地支配の結果であることは歴史的にみて明らかである。在日朝鮮人及びその父母の多くは、「徴用」等により強制的にわが国に渡来させられ、あるいは植民地政策の結果、祖国である朝鮮半島で生活できなくなつたため渡来を余儀なくさせられた人々であり、わが国の当時の軍国主義の最大の犠牲者であつた。そしてこのことは、昭和二〇年の敗戦当時、日本本土に約二〇〇万人の朝鮮人が居住し、しかもそのうちの約四分の三に当る人々が、敗戦から僅か一年程の間に朝鮮半島へ引き揚げたという事実からもうかがえるのである。

しかし、なお約五〇万人の朝鮮人が戦後三六年の間そのまま日本国内に居住して来ており、その殆どは、日本で生まれ、日本で育ち、言語や生活慣習に至るまで日本のそれによつているのであつて、国籍の点を除けば、日本国民との間に有意な差違を見出せない状況にあり、納税、経済活動等の面においてわが国に積極的に貢献している。

(イ) 敗戦からサンフランシスコ対日講和条約発効までの間の処遇の変化

昭和二〇年八月一五日ポツダム宣言の受諾による日本の敗戦の結果、朝鮮半島及び朝鮮人は日本の植民地支配から解放されたが、日本本土の在日朝鮮人はGHQ(連合軍最高司令部)と日本政府によつて翻弄されることになつた。

まずGHQは、同年一二月三日に発した「日本占領及び管理のための基本指令」の中で、在日朝鮮人は「軍事上の安全が許される限り「解放人民」として処遇すべきである。……彼らは、今なお引き続き『日本国民』であるから、必要な場合には『敵国人』として処遇されてよい」と規定した。

次に、同月の選挙法改正の際には、在日朝鮮人の選挙権、被選挙権は「当分の間、これを停止する」とされ、また昭和二二年五月に施行された外国人登録令では、在日朝鮮人は「外国人とみなす」とされ、外国人として扱われた。

他方、昭和二一年に施行された旧生活保護法、同年に改正された軍人恩給法などにおいては、在日朝鮮人はその適用を受けていたし、出入国管理令(昭和二六年一一月一日施行)では、その適用から除かれ、日本国民として扱われていた。

このように、その時々において外国人とされたり、日本国民とされたりしていたのが、昭和二七年四月二八日のサンフランシスコ対日講和条約の発効に伴つて、一律に日本国籍を喪失させられるに至つた。この措置は、同月一九日法務府民事局長通達によつてなされ、日本政府が対日講和条約二条(a)項の規定を根拠にして行われたものであると説明していたものであるが、講和条約発効日に、居住地に一切関係なく、戸籍のみを基準にし、当事者の意思を全く考慮せずに一律になされたものであつて、日本国憲法下の国籍法が身分関係の発生と国籍移動を連結させていないこと(憲法二四条の家族生活における個人の尊厳と両性の平等の保障の要請に基づく)と比べて著しく不当な措置であつた。

このことは、日本国憲法の制定施行当時、在日朝鮮人が前述の如く日本国民として処遇されており、右憲法の適用がなされていたことを考えると、憲法及び国籍法に違反するものであつたといわねばならない。

(ウ) サンフランシスコ対日講和条約発効後の処遇

右講和条約の発効によつて外国人とされた在日朝鮮人に対して、日本政府は、「別に法律がつくられるまでの間、在留資格を有することなく本邦に在留できる」旨定めた法律第一二六号を制定し、あわせて昭和二七年四月二八日施行の出入国管理令、外国人登録法の適用を図るとともに、それまで適用していた軍人恩給法等から除外する措置をとる一方、生活保護法については、昭和二九年五月、「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」(昭和二九年五月八日社発第三八二号、各都道府県知事宛、厚生省社会局長通知)による措置が行われるまでの間も、昭和二五年一一月六日社乙第一九〇号通知に基づいて在日朝鮮人に対する適用が継続されていたのである。

また、昭和三三年一二月に公布され、翌年施行された国民健康保険法の適用についても日本政府は、外国人を対象としていないと解釈、運用してきたが、現在では東京、大阪をはじめとする全国の地方自治体(市町村)において、在日朝鮮人の加入を認める条例が制定され、医療保険制度の充実が図られてきている。なお、昭和四〇年に締結された「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定」は、永住許可された大韓民国国民に対する生活保護及び国民健康保険の適用のための措置がとられている。

これらはいずれも在日朝鮮人の一般外国人とは異つた事情が考慮されたことによるものであること明らかである。

(2) 以上のように、在日朝鮮人は、その時々の日本政府などの場あたり的な政策に翻弄されながらも、なお全体的にみた場合に、日本国民と同等の権利を有することを確認される方向に向つてきたことがうかがえるのである。

(二)  控訴人本人の立場

(1) 以上に述べた在日朝鮮人の立場の特殊性は、控訴人に最もよく合致するものである。

控訴人も日本において朝鮮人の両親の間で生まれた。そして満三歳頃に両眼の視力を完全に失い、学校教育を受けることもできず、朝鮮人であり、かつ視力障害者であるという二重の差別を受け、それに耐えながら成長したのである。

この当時でも、両親に資力さえあれば視力障害者である控訴人に対して学校教育を受けさせることも不可能ではなかつたであろうと考えられるが、朝鮮人として差別されながら、ただ親子の毎日の糊口をしのぐのが精一杯の両親に、それは望むべくもないことであつたのである。結局控訴人が学校教育を受けたのは満二〇歳になつてからである。

その後控訴人は、日本国民である塩見政吉と結婚し、二児をもうけ、目の不自由を克服しつつ養育するとともに、昭和四五年一二月一六日付をもつて帰化により日本国籍を取得し現在に至つているのである。

(2) 右のように、控訴人は、大日本帝国「臣民」として生まれ、そのまま日本本土で成長し、日本の敗戦後も朝鮮半島へ帰ることなく(祖国を知らない控訴人の生活基盤はすべて日本本土にあつたのであり、帰ることは事実上不可能であつた)、日本で学び日本で働いてきたのであつて、朝鮮を見たこともなく、朝鮮語を全く解さないのである。

(三)  社会保障における国籍による差別

(1) 日本国憲法の二五条や一四条の文言だけでは、それが外国人にも保障されるものであるか否かは明らかではないが、憲法前文に「われわれは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と明記されていることの法的意味(それが直接法源となるか、解釈の指針であるか、の争いは別としても)をみれば、わが国に在住する者である限り国籍を問わず社会保障の権利が保障さるべきものである、と解されるのが自然である。

したがつて、在日外国人、殊にわが国と歴史的・社会的に特別の関係にある定住外国人である在日朝鮮人を社会保障から排除するような偏狭で不寛容な立法ないし取り扱いは、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」との憲法前文の決意にももとることになる。

(2) 人権としての社会保障

社会保障権を人権として最初に宣言したものとしては、一九四八年(昭和二三年)一二月一〇日第三回国際連合総会において採択された世界人権宣言第二二条があり、「すべて人は、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有し、」として、それが何人に対しても「社会の一員」であることによつて、即ちに国籍には関係なく保障されるべきものであることを明らかにし、また、同宣言二五条一項は、「すべて人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に充分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢、その他不可抗力による生活不能の場合は保障を受ける権利を有する。」と述べている。これらはいずれも、何人にとつても人間であること自体において平等に尊重さるべき性質を有する「人間の尊厳」を現代社会において守るためには、言論や信仰の自由などのいわゆる自由権の保障とともに「欠乏からの解放」が現在社会における人間の尊厳の実質化のための裏付けとして不可欠であり、何人に対しても社会の一員として国籍に関係なく平等に保障さるべきものとの認識のもとに、国家に対する給付請求権としての生存権を論理必然的なものとして観念しているのである。

そして、右の理は日本国憲法においても明確に認められているところである。

また右の理は、ドイッ連邦共和国基本法一条一項の「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ保護することはすべての国家権力の義務である。」との規定についての解釈からも明らかである。同項の解釈は「人間の尊厳は人間の一身と結合したものであることからして、一条一項一段にいう権利主体は、すべての人であり、勿論、外国人や無国籍人も含まれる」とされるとともに、「基本法一条一項から直接に、物的財貨の最低限を保障すべき国の義務が生ずる、けだし、そうでなければ人間の尊厳に値する生活は可能でないからである。……一条一項によつて要請される基本的生活条件には人間に値する住居に対する権利も含まれる。」とされている。

右世界人権宣言は、国際連合加盟国のすべてに向けられたものであるが、条約ではないため法的拘束力をもつものではないと解されているが、後の一九六六年一二月の第二一回国連総会において、国際人権規約が採択され、一九七九年に至つてわが国もこれを批准し、同年九月二一日からわが国についても効力が生じたことによつて法的義務を負うに至つたものであるところ、右規約中の「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」A規約(以下、国際人権規約A規約という)の九条は、「この規約の締約国は、社会保険その他の社会保障についてのすべての者の権利を認める。」と定めており、社会保障が人であることにもとづいて保障されること、即ち国籍に関係なく権利としてすべての者に保障されるものであること、を確認している。

(3) 外国人と無拠出給付

一九五二年のILO第一〇二号「社会保障の最低基準に関する条約」(以下、ILO第一〇二号条約という)第一二部六八条は、「国民でない住民も国民たる住民も同一の権利を有するものとする。」と規定し、国籍による差別を禁じている。もつとも同条但書は、「主として公費による給付の制度については特例を設けうる」と規定しているので、無拠出制年金や公的扶助については平等待遇をしない場合を設けてもよいということになるが、これは本文の趣旨との関係からみて、外国人を全面的に排除することまで認めたものとは解されてはいない。

さらに、一九六二年のILO第一一八号「社会保障制度における外国人の均等待遇に関する条約」(以下、ILO第一一八号条約という)においては、いわゆる無拠出制年金を除外することなく、外国人にも同等の権利が認められているのである。

なお、付言するとアメリカ合衆国最高裁判所は一九七一年にグラハム対リチャードソン事件の判決の要旨で、「アリゾナ州やペソシルバニア州法のように定住外国人または合衆国内での居住期間が一定年数にみたない外国人に対して福祉給付を拒否する州法は、合衆国憲法修正第一四条の法の下の平等保護条項に違反するものであつて違憲である」と述べており、これは本件においても十分参考に値するものである。

(4) 障害者に対する無拠出給付と外国人

しかし右に述べた傾向は、従前は特に障害者を意識してのものではなかつた。

障害者が健常者に比べてはるかに不利益を受けやすい立場に置かれていることは明らかである。

そこで、一九七一年一二月第二六回国連総会は「精神薄弱者の権利宣言」を採択し、次いで一九七五年五月、国連経済社会理事会が「障害の予防と障害者のリハビリテーションに関する決議」を行い、「障害及び障害者の問題の重要性が増大していることについて各国政府の注意を喚起する」とともに、各国政府や国連事務局長等への要請事項を明らかにし、さらに同年一二月九日、第三〇回国連総会は「障害者の権利に関する宣言」を採択した。右宣言には、「人間としての尊厳を尊重される権利」、「他の人々と同一の市民としての権利及び政治的諸権利」、「経済的かつ社会保障をうけ、相応の生活水準を保つ権利」等々の諸権利を障害者の権利としてかかげるとともに、「障害者はこの宣言で唱えられたすべての権利を享受するものとする。これらの権利は、いかなる例外もなしに、さらに人種、皮膚の色、性別、言語、宗教、政治的或いはその他の意見、国或いは社会的な身元、貧富、出生、又は、障害者自身やその家族が持つその他いかなる状況による区別もなしに、すべての障害者に与えられる」と、「いかなる例外もなしに」「すべての障害者に」保障されるべきことを宣言しているのである。

また、イギリスにおいては、イギリス本国における居住者に対し、国籍を要件とすることなく、外国人の障害者に対しても、他の法定の要件を満たすならば、権利として無拠出障害年金が支給されているのである。

わが国においても、一九七〇年五月に公布・施行された心身障害者対策基本法はその一条において、「心身障害者対策に関する国、地方公共団体等の責務を明らかにするとともに、心身障害の発生の予防に関する施策及び医療、訓練、保護、教育、雇用の促進、年金の支給等の心身障害者の福祉に関する施策の基本となる事項を定め、もつて心身障害者対策の総合的推進を図ることを目的とする。」とうたい、その三条において、「すべて心身障害者は、個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有するものとする」とうたつているが、ここに「すべての心身障害者は」と述べていることから、およそ心身障害者であれば、国籍を問わず、人間の尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有するという趣旨であることは明らかである。しかも、この法律は、その標題と一条から明らかなように「心身障害者の福祉に関する施策の基本事項」を定めているのであり、そのような施策の一つに年金もあげているのである。

(5) 外国人の納税と外国人の生活保障

国が日本国内に在住する国民に対して納税を求めることの正当性、つまり租税権の正当性の根拠を納税者の側からみるならば、それは日本国憲法のもとにあつては「納税者の福祉」ということになると考えられる。そして、その場合においても重要なことは、その課税が法律すなわち納税者たる国民の代表機関の意志を前提にして初めて可能(憲法の移税法律主義はこのことを意味するのであり、この手続的民主性が全うされてこそ徴税の正当性が基礎づけられる。)であることを忘れてはならない。

しかるに外国人の場合は、参政権を認められていないのであるから、徴税に対する手続的民主性の保障である代表機関を通じての同意の機会のないまま、一方的・権力的に課税されることになる。それゆえ外国人に対しては、なおさら、納税者の福祉のためにという課税目的が実感をもつて受け取られるように配慮する必要があるのである。つまり、外国人には、社会保障においても、すくなくとも同じ納税義務を負担するその国の国民と同程度の権利が保障されるべきである、ということである。税金をとるときには、日本に在住することを根拠に基本的な手続的民主主義を欠いてまで徴税しながら、社会保障の適用に当つては日本国民に限るというのでは著しく公平を欠く。しかもこのような不公平行政の対象となつた人々の大部分は、第九四国会参議院法務委員会における法務省出入国管理局長大鷹弘の説明からも明らかなように、かつての日本の植民地であつた朝鮮や台湾等から来住を余儀なくされた人達とその子孫にあたる人達なのであるから、その不公平さはなおさらである。

(6) 社会保障における属地主義

改正前の法が「一国の国民の福祉を図ることは本来その国の政府の責務であつて他国の政府の責務ではない」との立場に立つて外国人を排除しているものであるとする考えは、いわば属人主義といえる。このような属人主義的説明は生活保護法の説明等の場合にも良く使用される。

しかるに他方、在外困窮邦人の保護に関する立法は極めて乏しく、ほとんど無きに等しい実情にあることからすれば、日本国政府としては、在外困窮邦人の保護については、その在住国の政府がこれをなしてくれるものと期待している、ということになるといえよう。改正前の法が被保険者資格や福祉年金受給資格を「日本国内に住所を有する日本国民」としていたのも、そのような考えを前提にしているといわざるを得ないのであり、これはいわば属地主義に立つていることになる。

しかし、在日外国人の保護については属人主義、在外日本国民のそれについては属地主義というような一方的に都合のいい立場を採ることは出来ないし、仮にそのような立場を日本が採つているとすれば、それは国際社会において恥じるべき行為である。

社会保障が、人として生きることそれ自体、つまり人間の尊厳の保持それ自体にとつて基本的に必須緊要の意味をもつ制度だということを前提とするなら、属地主義が基本的に優れているといわざるを得ないはずである。すでに述べたように日本国憲法前文が全世界の国民に対して平和生存権を確認したのはまさにこの意味なのである。そして、このことは、世界人権宣言、国際人権規約、ILO諸条約等の国際文書が社会保障の内外人平等を唱つていることからも明らかである。

ILO第一一八号条約が相互主義を排して均等待遇主義を採用したのも、右に述べたように社会保障の基本的人権としてのことであることは明らかであり、公的扶助を除外したのは、既に被控訴人の主張に対する反論のところでも述べたように、公的扶助にかかわる用語の意味・概念が国によつてかならずしも同じでないため、条約で規定するのが困難であるという技術的理由からにすぎず、従つてこの分野で国内立法が差別を設けることを正当化するものと解釈されてはならないのである。

ILO第一一八号条約の批准国は、一九七七年一月現在で既にドイツ、フランス、イタリアをはじめ三一カ国にものぼつていることを忘れてはならない。

再度繰り返すが属地主義的取扱こそが社会保障の原則なのである。

(7) わが国の難民の地位に関する条約及び難民の地位に関する議定書への加入とわが国の外国人に対する社会保障

わが国は難民の地位に関する条約と難民の地位に関する議定書(以下、右条約及び議定書を併せて呼称するときには、難民の地位に関する条約等という)に加入した。

そして、わが国が難民の地位に関する条約等に加入した趣旨については、第九四国会における園田直外務大臣のなした右加入について承認を求める件の提案説明に表われている。右説明を要約すると、第二次世界大戦前後に主として欧州において発生した難民の保護のため難民の地位に関する条約が昭和二六年七月二八日に作成され、昭和二九年四月に効力を生じ、八一カ国が締約国となつているが、適用される難民の条件として、一九五一年一月一日以前に生じた事件による、との時間的制限がある結果、それ以後に生じた難民は救済されないという不都合があつたので、この時間的制限を取り除くことを目的とした難民の地位に関する議定書が昭和四二年一月三一日作成され、同年一〇月から効力を生じ、現在七九カ国が締約国となつているものであるところ、難民の地位に関する条約等は、難民として認められる者に対して国内制度上の保護を与えること、つまり自由権、社会権等について、それぞれの条項により最恵国待遇、内国民待遇などを与えること等を規定しており、これらに加入することは、近年アジアにおける難民問題に関するわが国の国際協力を拡充する観点から望ましい、というものである。

難民の地位に関する条約は、二三条において公的扶助について、二四条において労働法制及び「社会保障」について、それぞれ「自国民に与える待遇と同一の待遇を与える」としている。

そして、わが国においては、難民の地位に関する条約等の承認条件は国会で承認され、一九八二年一月一日から国内法としても効力を生ずるに至つた。

右加入の意義について、政府当局者は「人権規約、難民条約というものの締結によつて、内外人平等の精神に基づいた人権の保全ということに大きな進歩を果したと考えられます」(第九四国会衆議院外務委員会会議録第一七号中の外務省賀陽条約局長の説明)として、内外人平等の人権保障を強調している。

右加入に関する右外務大臣の説明等を素直にみるならば、世界の趨勢に従い、わが国も、社会保障の権利につき、内外人を何ら差別しないという立場を採用したものとみるのが自然な理解であり、「一国の国民の福祉を図ることは本来その国の政府の責務であつて他国の政府の責務ではない」とする思想をわが国が抛棄したことは明らかである。

(8) 以上のとおり、人間の尊厳の観点から基本的に内外人は平等でなければならず、外国人、特に一時的、経過的、短期的にではなく、多年に亘つて「社会の一員として」在住してきたいわゆる定住外国人に対して、社会保障上の権利を認めない、ということは許されないとするのが正当である。

そして、在留外国人の法的地位を、その生活実態に見合つたものとするという意味で、実質的公平、実質的平等を追及するためには、当該外国人に対する保障の態様、在留国の国民と平等に扱うか否か、という点を考えるに際して、当該外国人の、居住の経緯、居住の期間、他の保障の有無等々、在留国との関わり方の如何が、考慮さるべき要素となる。

(四)  法八一条一項の障害福祉年金の性質

(1) 法八一条一項の条文上は、「昭和三四年一一月一日当時、二〇歳をこえている者が、すでに一定の廃疾状態にあるとき」であるが、これは実は二つの場合に分類されるのであり、その一は「昭和三四年一一月一日当時、二〇歳をこえている者が、すでに一定の廃疾状況にあるとき」で、かつその者の廃疾認定日が二〇歳を超えた時点である場合であり、その二は「昭和三四年一一月一日当時、二〇歳を超えている者が、すでに一定の廃疾状況にあるとき」で、かつその者の廃疾認定日が二〇歳未満である場合である。

前者の場合は、制度の発足がもつと早ければ拠出制年金に加入できたはずであり、その後の保険事故(廃疾状況)に対して障害年金を受給できたはずであるという場合であつて、かかる場合に制度発足以前のことは制度の範囲外であるとして一切の権利を否定することは、国民の公平感覚に反し、まさに「不都合」というべきである。しかし、後者の場合は、制度がいつ発足したかにかかわらず、廃疾事故は保険加入資格を有しない未成年のときのものであり、これは、法五七条の場合の延長線にあるものである。

すなわち、本件で問題となる控訴人の受けるべき障害福祉年金は、仮に「補完的」「経過的」なる分類に当てはめるとすれば、廃疾事故が未成年のときにあり、未成年のときに固定したという意味では「補完的」であり、成人した後に制度が発足したがその故をもつて制度の適用から除外せず法施行日を廃疾認定日と擬制して福祉年金を支給する(国籍問題を別として)という意味では「経過的」であつて、「補完的」年金と「経過的」年金との複合形態というべきものなのである。

そして、この未成年の時の事故につき、成年に達するとともに年金を支給するという制度は「国民年金制度の基本原則である拠出制年金」という仕組みの中には入りきらないものである。けだし、拠出制を原則とするかぎり、その制度はせいぜい本来なら拠出できたはずの(制度の発足が遅れたために拠出できなかつた)者に拡張する位であつて、制度そのものが加入資格を認めず、従つて拠出を認められない者(未成年者)に廃疾事故が発生したとしても、またその者が成年に達しようとも、制度を適用するべきいわれはないというべきだからである。

それにもかかわらず、法は、未成年のときの廃疾事故につき、その者が成年に達したときは障害福祉年金を支給すべきものとしているのは障害福祉年金が、拠出制年金、即ちいわゆる年金保険の中の一環ではなく、拠出制年金とは別箇の制度であり、拠出制年金という制度だけでは救済できない場合について、拠出制年金制度を「補完」するものであり、一の制度の中にあつて互いに「補完」し、「補完」される(両者を総合して一の制度とする)ものではなく、一の制度をもつてしては及び難い問題を他の制度によつて「補完」するという関係に立つものであつて、社会保障を、(ア) 最低限度の生活を保障する救貧的施策、(イ) 防貧的施策としての経済保障、(ウ) 公衆衛生及び医療、(エ) 社会福祉、の四部門に分類する説のいずれにも当てはまらない社会保障の新たな形態なのである。

(2) 右のことは、その実質をみても明らかである。

即ち、すでに独立して職業についている者が、その人生設計を根底から覆えすような予期しない廃疾事故に遭つたとすれば、それはたしかに、直接稼動能力の問題となつて従前の所得もしくは将来予期されていた所得の保障が生じてくるであろうが、幼少時に、つまりその者の人生設計が具体化されていない時点において、廃疾事故が発生したとすれば稼動能力とか所得保障とかの問題には直結しない。

しかしながら、障害福祉年金は、職業に従事していること、もしくは職業に従事する意思を有していることを条件にはせず、例えば大学の学生のように、在学中の間は職業につく意思の存していない場合であつても、二〇歳になるとともに支給されるものである(職業に就く意思のない専業主婦の場合でも同じである)から、稼動能力の喪失に対する所得の保障ではないのである。

(3) 障害福祉年金は、原審において控訴人が主張してきたとおり、三つの側面(その要約部分は原判決二六枚目表一二行目から同裏八行目までに記載)を有するものであり、それは公的扶助、社会保険のいずれにも属さない社会保障の第三の類型に属するものなのであつて、右三つの側面のいずれもが国籍の如何とは全く関係がなく、まして過去の国籍がどうであつたかということとも全く関係がないものであるから、障害福祉年金制度に国籍要件を設けることは合理性がない。

法(即ち国民年金法)という単一の法律の中で、拠出年金制度と並べて規定されているからといつて、法八一条一項の障害福祉年金が拠出制年金(年金保険)という制度の中の一環とすることは、あまりにも形式的な解釈である。

(五)(1)  法における日本国民と定住外国人

整備法による改正前の法の拠出制年金及び福祉年金についての国籍要件については、昭和三四年の法発足当時、国会では全く質疑の対象になつてはいなかつた。

しかし、第九四国会での整備法に関する審議のなかで、当局者は、「改正前の国民年金法の被保険者集団を日本国民に限定したのは、一般的に外国人は短期にわが国に在留されるから拠出等を強制される被保険者集団として不適当であると考えてこの制度を創設したというふうにきいている。」という趣旨の説明をしている。そして、日本国とアメリカ合衆国との間の友好通商航海条約により内国民待遇を保障された在日アメリカ人については、当然に強制加入被保険者にあたるとしながら、実際の運用上では任意加入に近い扱いがされており、これは定住外国人ではないことによる保険料の掛け捨てを考慮したものとされている。つまり、改正前の法が前提とした立法事実は、旅行者のように日本国内に一時的に留まるだけの外国人を被保険者としないというものだつたのである。

このことは、いいかえれば、定住的外国人(その代表的なものが日本と歴史的・社会的にふかい関わりをもつ在日朝鮮人であることは公知の事実に属する)は、改正前の法が予定した外国人の範疇には入つていなかつたということである。そして、これをさらにいいかえれば、法との関係で日本国民というときは、すくなくとも、これら定住外国人(とりわけ在日朝鮮人等)を含むと解すべきであるということである。

そして、事実、右の如き考えが当時かならずしも不自然でなかつたことは、在日朝鮮人に対して国民年金への加入の勧誘がされた事例が散見されることからも明らかである。また、このことは、在日朝鮮人のような定住的外国人をも外国人として法から排除することが国民年金発足当時に予想されていたとしたら、その社会的重大性の故に必ずや当時問題になつたはずであるにもかかわらず、そのような問題が論議されていないという事実からも根拠づけられるのである。

それゆえ、戦前から多年にわたり日本で生活してきた在日朝鮮人のような定住的外国人の場合は、拠出制年金を建前とする国民年金発足当時すでに高齢であり、あるいは既に二〇歳をこえる障害者であつた者もかなりいたはずであつて、これらの者は、その責任でなく拠出制年金に加入出来ない状況にあつたのであるから、当然経過的福祉年金の利益をも受け得てしかるべきであり、また、補完的福祉年金とされるものについても、それが特に低所得者を対象として予想している制度であることからみて、やはりその利益を享受できるとするのが当然である。

右のとおり、法における「日本国民」には控訴人のように生活実態において日本国民と同視すべき者を含み、その反対解釈として法五六条一項ただし書の「日本国民でない者」には含まれないものと解すべきであるから、控訴人の障害福祉年金裁定請求を棄却した本件処分は、同項の解釈適用を誤つて合理性のない差別をしたものとして、その限りにおいて違憲(いわゆる適用違憲)となるものというべきである。

(2)  二〇歳未満のうちに廃疾状態であつた元からの日本国民と外国人であるうちに廃疾状態であつた帰化による日本国民

元からの日本国民であつて二〇歳未満のうちに廃疾状態にあつた者(例えば、控訴人同様、昭和九年に出生し、三歳頃に失明し、昭和三四年一一月一日に全盲であつた日本国民)は、二〇歳に達しても、その廃疾については拠出制年金の保護を受けられないものであり、また外国人であるうちに廃疾状態にあつた者は、帰化によつて日本国民となつた後でも、その廃疾については拠出制年金の保護を受けられないものである。

右のとおり、右廃疾については拠出制年金の保護を受けられないことについては、外国人(本件で具体的には控訴人)は、二〇歳未満の日本国民と差異がないにもかかわらず、元からの日本国民は二〇歳に達すると障害福祉年金の支給を受けられるのに対し、外国人は後に(廃疾認定日後に)帰化によつて日本国民となつても障害福祉年金の支給を受けられないのは不合理である。

(3)  控訴人の廃疾認定日として考慮すべき事項

控訴人の自然的な廃疾認定日は控訴人の失明時点である一九三六年(昭和一一年。即ち対日平和条約発効以前)であり、その当時控訴人は日本国民であつたのであるから、控訴人については、法施行日という形式的な廃疾認定日ではなく、日本国民であつた当時の自然的な廃疾認定日のことをも考慮すべきである。

(4)  法八一条一項の障害福祉年金の支給要件としての日本国民たることの要件と廃疾認定日

仮に、障害福祉年金が日本国民に対するものであり、日本国籍を有することが必要であるとしても、それを廃疾認定日の時点において問う必要はなく(殊に、法八一条一項の障害福祉年金における廃疾認定日は、右福祉年金制度発足の日であつて、これを廃疾認定日とするのは便宜的なものであつて、何ら合理的根拠はないのである)、それが支給要件であるのなら、成年(二〇歳)に達することによつて受給権が発生するのと同様に、日本国籍を取得することによつて受給権が発生するとすれば足りることであり、かつその方が合理的であり、公平であるというべきである。

(5)  法八一条一項の障害福祉年金の廃疾認定日と国籍法の帰化可能年齢

わが国の国籍法は、帰化の原則的要件の一として「二〇歳以上で本国法によつて能力を有すること」をあげる。もつとも、右には同法五条等の例外措置があるが、しかし同法が未成年者の帰化を原則として認めていないことは明らかである。そうすると、同法の右原則と相い俟つて、廃疾認定日が二〇歳未満の時であり、帰化によつて日本国籍を取得した者にはいわゆる「補完的」福祉年金(法八一条一項の障害福祉年金の中にはこれに相当するものがあることは既述のとおりである)の制度の適用はないことになり、同じ日本国民を過去の経歴によつて差別することになる。

(六)  国際人権規約A規約の裁判規範性

国籍は国際人権規約A規約二条二項の「国民的出身」に該当するものと解せられる。

そして、同規約の平等原則については、それ自体充分明確に規定されており、裁判規範として機能するものである。即ち、社会保障立法における不合理な差別条項によつて差別を受けた者は、憲法一四条を媒介とするまでもなく、同規約の各条項を援用して争いうる(即時適用の効果として)ということである。

したがつて、控訴人のように帰化して日本国民になつている者の場合、現に日本国民であることこそが重要な事実であるにもかかわらず、廃疾認定日において日本国民でなかつたというだけの理由で障害福祉年金の受給資格が認められないのは、まさにこの即時的効力を有する同規約二条二項にいう「国民的出身」そのものによる差別として条約違反となるから、本件処分は取消さるべきものである。

(七)  整備法附則五項の違憲性

前記のとおり、わが国は難民の地位に関する条約等へ加入した。そして右加入に伴つて整備法(昭和五六年法律第八六号)が制定され、これにより法五六条一項ただし書を含む法の国籍要件に関する条項が削除されるに至り、本件に関連のある理念的な問題は今後の分については解決された。

しかしながら、控訴人の提起した具体的な問題は、整備法附則五項が「なお従前の例による」としたことによつて放置される形となつている。

右附則は、福祉年金不支給(ないし受給権の消滅)の事由であつて「施行日前に生じたものに基づく法による」不支給(ないし受給権の消滅)であるときと、施行日後に生じたものであるときとで、取扱いを異にするというのであつて(即ち、現在では外国籍に在る者でも要件を充足していれば障害福祉年金の支給を受けることになるが、控訴人の如き場合には、日本国籍を有しながらなお支給を受けることができないことになる)、国籍要件が削除されたにもかかわらず、法八一条一項は実質的に否定されることとなり、右附則もまた後記憲法の前文や各条項に違背するものである。

(八)(1)  憲法二五条の生存権

憲法二五条が同一三条の表現などに比して具体的かつ明確であること、また「健康で文化的な最低限度の生活」水準の具体的内容そのものの科学的算定も決して不可能ではないこと、を考慮するとき、憲法二五条の生存権は現実的、具体的な請求権として、即ち法的権利として憲法上規定されたものというべきである。

(2)  憲法二五条の裁判規範性

被控訴人は、憲法二五条はいわゆるプログラム規定であつて司法審査の基準となりえないものであつて、この解釈は、いわゆる朝日訴訟や堀木訴訟の最高裁判所の判例によつて明らかなように、既に解決ずみである旨主張するが早計である。

けだし、最高裁判所の判例といえども変更されることがあり、現在の最高裁判所が司法消極主義を採つているからといつて今後もそうだと断定することは出来ないからである。

また被控訴人は、憲法二五条の裁判規範性を全く否定しているが、そのような理解は明らかに誤つている。このことは憲法二五条の持ついわゆる自由権的効果の問題を考えればおのずと明らかである。

被控訴人は、社会保障制度の充実は国の施策の一つであるが、それのみが国家の排他的至上命令ではないから、その制度として、何を設け、それにどれだけの財源を当てるべきかは、全国民的立場に立つて多面的な角度からの検討を要する優れて政策的な問題であり、国民に対し政治責任をとることのできる立法府のみが判断、決定すべき事項なのである、と主張する。

しかし、このような理解は、憲法の規定する違憲立法審査権を無視するものである。被控訴人の論法でいくなら、およそ財源を要するような種類の国の施策は全て優れて政策的な問題ということになる。そして、今日のわが国において財源を必要としないような施策の存在を考えることは困難であるから、司法審査の対象となる領域が著しく限定されることになり、民主主義の制度的保障としての三権分立のチェックアンドバランスの機能そのものが作用しなくなる危険性がある。

(3)  憲法二五条一項、二項峻別論及び防貧、救貧峻別論

(ア) 社会保障の発展

社会保障の概念は、いわゆる資本の本源的蓄積の段階で登場した救貧法、産業資本主義の段階の労働者相互扶助制度、さらに独占資本主義の段階における社会保険の出現という前史を経て、国家独占資本主義の段階において発生したものであるといわれている。

救貧法として有名なのは、一六〇一年に集大成されたイギリスのものが有名である。

これは、イギリスにおける資本の本源的蓄積の段階で、いわゆる囲い込み運動により生産手段としての土地を追われた農民等の著しい増加とそれにともなう社会不安の拡大を緩和するための立法であつた。

イギリスでは、爾来、多年にわたる救貧法の歴史をもつことになるが、その内容は公的義務主義を内容とし、いわゆる劣等主義を採用するもので、生活困窮者に対し保護請求権を認めたものかどうかは不明であつた。

その後、産業革命による資本主義的生産様式が確立されていく過程である一九世紀を通じて、労働者の要求におされて労働保護立法が漸次形成され、その要求が労働者の全ての生活事故に対する保護へと拡大される過程において救貧法とならんで社会保障の前史的形態とされる社会保険がドイツに登場する。

一八八一年の国王ヴィルヘルム一世の社会保険教書、一八八三年の疾病保険法、一八八四年の工業災害保険法さらに一八八九年の廃疾老齢保険法がそれである。

これらは、ビスマルクのいわゆる「飴と鞭」の政策に基づく飴の部分であるが、私保険にならい保険方式(但し、法律に基づく強制加入制、保険技術的等価原則によらない賃金比例方式の保険料納付、さらに給付財源の一部への国庫負担の導入により、私保険とは本質的に異なつていたことに留意する必要がある)とされ、救貧法の恩恵的かつ資産調査の受忍という不快さを取り除いている点において画期的なものであつた。

そして、この保険方式の採用が、労働者をして、拠出に対する反対給付、すなわち拠出に基づく権利としての受給との観念を生じさせたのである。

つまり、市民法的発想と労働権保障要求の結合形態として、社会保険の権利が成立するに至つたのである。

しかし、第一次世界大戦後の資本の全般的危機の段階、さらに国家権力と独占資本の癒着による国家独占資本の段階に至ると、生産規模の巨大化と生産の社会化の極度の進行にもかかわらず、失業の大量恒久化と賃金の実質低下の状況が同時に進行したため、もはや国民生活は、旧来の自助原則にのつとつて社会保険を追加する程度では到底維持出来なくなるに至つた。また、資本の側においても、社会保障制度のための自己の負担、つまり利潤部分からの拠出をなるべく減少させ、これを国庫すなわち一般財源に転嫁させようとする傾向が生じた。その結果として、従来の賃金と利潤からの拠出を主とする保険基金に対する税金参加部分の比率が次第に増大し、「拠出に対する給付から税金を媒介として無拠出に対しても受給権を生みだすこと」になつたのである。かくして、貧困の析出に対する社会科学的認識と生存権思想の発展に支えられて、第一次大戦以降、ドイツでも、公的扶助制度について保護請求権を認めるべきではないかという考えが成立してきたのであつた。

また、この間にニュージーランドやイギリスにおいて、権利としての無拠出年金の立法が成立するのである。

このような歩みの上に立つて、生存権思想は、第一次大戦後の一九一九年、ドイツワイマール共和国憲法一五一条「経済生活の秩序は、全ての者に人たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない」として結実したのである。

また、社会権の国際的承認への出発もこのころで、ワイマール憲法より一足早く締結されたベルサイユ平和条約に基づいて創設されたILOが、その後、労働保障に関する条約や勧告等幾多の国際文書を形成する為に活動していくことになるのである。

ここで注目されるのは、第二次世界大戦下の一九四二年、ILOがその刊行にかかる「社会保障への途」において、「社会扶助」という名で、無拠出給付について「受給者からの拠出も、資力調査も、ともに社会保険の特徴でもなければ、社会扶助の特徴でもない。社会扶助は救貧から社会保険の方向への前進であり、他方、社会保険は私的保護から社会扶助の方向への進展である。」としたことである。

救貧・防貧、ないし救貧・社会保険二分論は、既に第二次世界大戦前においても絶対ではなくなつていたのである。

そして右「社会保障への途」にいう「社会扶助」のイメージは、一九四四年のILO第二六回総会のいわゆるフィラデルフィア宣言においてかなり具体的にしめされたのである。右宣言をうけた所得保障勧告は、できるだけ強制的社会保険制度を基礎とすることが望ましいとしながらも、強制保険制度の適用されない窮乏については「社会扶助」によつて充足すべく、とりわけ被扶養児童、貧困な障害者、老齢者および寡婦は合理的な所得率の児童手当ないし特別生活維持手当を受ける権利を有すべく、かつ、この生活維持手当は「長期間の生活維持を充分に確保するに充分でなければならない」とし、また、その他の窮乏に悩むものには「一般扶助」として、「充分な手当」を設定されねばならないとしたのであつた。

そして、この頃イギリスにおいても、従来の社会保険立法の不備を整備すべく、一九四二年一一月にウイリアム・ベヴアリッジ卿を長とする委員会から「社会保障および関連サービス」と題する報告書が政府に提出されるとともに公表された。この報告書で注目すべき点は「社会保険給付自体が生存に必要な最低所得を保障するに充分であることが要求されている」ことである。つまりこれはナショナル・ミニマムの思想であり、その後イギリスでは、右報告に基づき一連の社会保障立法が相次いで制定・施行され、以来今日まで、右思想は、多くのイギリス国民にとつてその最低生活を規定する重要な基準となつているのである。

このように、救貧(公的扶助)と防貧に二分し、前者については最低生活という絶対的基準があるが、後者についてはそのようなものはないという原判決などにみられるような考えは、世界的な社会保障の発展の歴史の上からみるとき、けつして一般的ではないのである。

一方、わが国の場合、戦前における社会保障前史的立法は、全体として極めて貧弱であつた。

しかし、ポツダム宣言の受諾による敗戦、明治憲法による絶対主義的・軍事的天皇制およびこれと緊密な関係にあつた「家」制度にかわつて、日本国憲法の「国民主権」「平和主義」「福祉国家」という大原則の下膨大な要保障国民の存在形成ともあいまつて、多彩な社会保障立法の成立と発展が促されることになつた。

(イ) 人間の尊厳と平等を基礎とする生存権と社会保障の構造

戦後社会保障立法の憲法上の根拠は、直接には憲法二五条の生存権条項に求められるが、生存権といい社会保障権というとき、その根底には「人間の尊厳と平等、自由の思想」があることは、前述のフィラデルフィア宣言にも明らかにされているところである。

右宣言における右思想は、その後「世界労働組合会議(ロンドン会議)」において、人間の尊厳に値する生活をするための社会保障の不可分の重要性が確認され、前記のとおり、一九四八年の国際連合第三回総会において世界人権宣言が採択され、更に一九六六年の国際連合第二一回総会において、国際人権規約A規約が「市民的および政治的権利に関する国際規約」B規約及びその附属選択議定書とともに採択されたのである。

以上の歴史的発展をふまえて生存権の憲法構造を考えると、人間としての尊厳は誰に対しても平等に守られるべきものであり、現在の国家における大部分の人々にとつて、人間の尊厳の平等保障要求を空念仏に終らせないようにするための制度的、物的担保がすなわち生存権要求だということが出来るのである。

日本国憲法でいうなら、一三条の「人間の尊厳」条項と一四条の「法の下の平等」条項をふまえて、この両条項を実質化しようとするものが二五条一項を総論とし同条二項ないし二八条を各論とする生存権条項だということになる。そして、このように解することの正しさは、一九四六年七月二一日の第九〇帝国議会衆議院委員会において、人間の尊厳条項や奴隷的拘束の禁止条項の各権利の経済的うらづけとして「人たるに値する生活」とか「健康で文化的な生活」をいとなむ権利が必要となるとの論議がなされていることからも明らかである。

また、人間の尊厳と経済的生活条件保障とが不可分の関係にあることは、人間の尊厳の不可侵条項はあるが、生存権条項を明記した規定を有しないドイツ連邦共和国基本法(ボン憲法)においても、尊厳条項から直接に物的財貨の最低限を保障すべき国の義務が生じるなどと主張されていることからも明らかである。

日本国憲法に即して、これをみるなら、人間の尊厳に発し、その現代社会における平等実現を担保するものとしての生存権的基本権は、人たるに値する生活を形成していくための能力を獲得するための教育をうける権利(二六条)と、労働能力を有するものに対して人たるに値する生活を可能にする内容の労働を保障される権利(二七条)と、さらに労働の能力が未成熟であつたり、老齢、傷病などのために減退または傷つけられたり、あるいは、その他のなんらかの事情で労働の機会を失つたり、所得が減損したり、生活負担が増大した者に対して、人たるに値する生活を直接保障することを要求する権利(二五条二項)とから構成されているといえるのである。そしてこの最後の意味での保障要求にこたえるための国家的制度こそが社会保障なのである。

つまりこれは、労働権保障や教育権保障という形態以外の方法で、人たるに値する生活としての生存権それ自体を直接的に保障するための具体的な方法を明らかにしたもので、同項にいう「社会福祉」とは児童福祉、老人福祉、障害者福祉等のいわゆる社会福祉サービスによる保障形態をさし、「社会保障」とは社会保険と困窮者に対して補足性の原理に立つて資産調査を媒介として行われる公的扶助、さらに福祉年金、児童諸手当の如きいわゆる社会扶助・社会手当等とよばれる無拠出の所得保障給付をさしていると考えられる。これらに加えて二五条二項は「公衆衛生」をあげている。そして、わが国において一般に社会保障というときは、以上のような意味での二五条二項による保障形態全体を総称しているといえるのである。このような意味での社会保障は、それ自体、生存権要求に対応するものである以上、これまた基本的な権利として要求されざるをえないものであり、ここに労働権・教育権とならんで社会保障権概念が憲法上から成立していることになるのである。しかも、それは、元来、人間が等しく尊厳なる人格の主体としての実を守られねばならぬとの要求に基づくものであるから、憲法の最も重要な基本原理である民主主義の要求でもある。この民主主義の要求であるとの考え方は、社会保障制度審議会設置法によつて設置された同審議会の一九四九年(昭和二四年)一一月の「社会保障制度確立のための覚え書」および翌年一〇月の「社会保障制度に関する勧告」においても認められている。

また、わが国では、戦前の救貧法があまりにも非権利的であり、かつ低劣な生存しか認めようとしなかつたことへの反省から、現行生活保護法の三条が特に「この法律により保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することが出来るものでなければならない」と規定しているが、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利の保障が生活保護の場合に限られるものではなく、その他の社会保障の各施策においても同様なのである。このことは、前記社会保障制度審議会勧告によつて確認されているところであり、かつ今日の社会保険立法においても所得保障給付等では保護基準を基礎とする給付を目安としているものがあることからも明らかである。

(ウ) 以上で、救貧・防貧分離論、憲法二五条一項二項峻別論の不当性は明らかである。

なお、被控訴人は「同条を一体的に解する者は、……。しかし、もしそうであるなら、既に人間としての『最低限度の生活』水準以上にある者(日本国民のほとんどがそうであると言つてよい)にとつて、同条は全く意味のない規定となるであろう。なぜなら、水準以上の者についていえば国がそれより下の状態である『最低限度の生活』を目的として『社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努め』たところで何らの利益を受け得ないことになるからである。」と主張する。

しかしながら、被控訴人の主張は、まず、日本国民の殆んどが「健康で文化的な最低限度の生活水準以上」にあるとする点において現実の認識を誤つている。なるほど現在のわが国においては、敗戦直後のように衣食住の全てにおいて著しく低劣な生活をする者は極めて少ないが、このことをもつて直ちに「水準以上」であると判断することは出来ないのである。なぜなら、「健康で文化的な最低限度の生活の水準」という基準は、社会の進展とともに変化する相対的な概念であり、過去の劣悪な状態との比較は意味をもたないからである。

次に、被控訴人の主張は、「水準以上」の者については、何らの利益を受け得ないことになるとの点においても誤つている。けだし同じ国民のなかで最低限度の水準の生活以下の生活をしている者が、国の社会保障により最低限度の水準以上の生活をすることは、水準以上の国民にとつても、そのことによる社会の安定や文化の向上等多大な利益を受けることになるからである。

(九)  以上要するに、法(整備法による改正前の法)所定の国籍要件及び整備法附則五項の規定は憲法の前文第二段第二、第三文(即ち、「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免がれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」の部分)、一一条、一三条、一四条一項、二五条に違反するか、少くとも法八一条一項の法五六条一項ただし書による制限、及び右附則によつて維持される制限は、憲法の右前文や右各条項に違反するが、控訴人に対し法五六条一項ただし書を適用した限りにおいて、及び右附則によつて右ただし書の適用が維持される限りにおいて、憲法の右前文や右各条項に違反するものであるから、本件処分は取消さるべきものである。

(一〇)(1)  立法裁量論

立法裁量論とは、一般に、「法律の合憲性判断が求められたとき、裁判所が、その法律の制定にあたつて行つた立法府の政策判断や決定等を尊重し、独自の判断を加えることを差し控える手法」であると言われている。

この立法裁量論に裁判所が依拠する際の基準として働く要因をいかなるものに求めるかについては、三権分立の機能的考察等ともからみ種々議論のあるところであるが、比較的優れたものとしてP・ブレストが整理した左記の一一項目がある。

(ア) 問題となつている利益の憲法上の特殊性

(イ) 民主政治の過程を完全なものとすること

(ウ) 非司法的な救済が得られる可能性の有無

(エ) 少数派の利益

(オ) 問題となつている利益の重要度

(カ) 憲法解釈の問題か政策の問題か

(キ) 関連事実を確定する能力

(ク) 一定の基準を形成し適用することへの司法の適合性

(ケ) 政策決定者における不公平さ

(コ) 政策決定者による争点への実際の判断が及ぶ範囲

(サ) 政策決定部門の性質

以上の要因はアメリカの判例等の整理の結果であるが、違憲立法審査権を司法に対して付与した日本国憲法下における裁判所の憲法判断の際の基準としても有効に機能するものである。

右基準をいわゆる堀木訴訟の最高裁判所昭和五七年七月七日判決が示した立法裁量論に対して適用した戸松秀典「堀木訴訟最高裁判決と立法裁量論」(「ジュリスト」七七三号)によれば、右判決では(カ)、(キ)、(ク)、(コ)の要素が働いたとみられるが、他の(ウ)、(エ)、(オ)の要素が考慮されていないところに問題が生じるとし、堀木訴訟のように個人の利益の救済が問題になつているとき(すなわちブレストのいう右(ウ)、(エ)、(オ))は、狭い立法裁量論、すなわち厳格度を増した合理性の基準によつて事件を処理するのが適切であると述べ、さらに「憲法一四条が命じる平等な取扱いの典型的な対象」の例として、「差別をうけたと主張する者の境遇が社会において誰についても共通してみられることでないこと、つまり、社会における少数者であること、また、不利益な取扱いにたいする救済を求めようとして政治過程に働きかけてもそれが反映される機会は少なく司法的救済に頼らざるを得ないこと、救済を求める利益は当人の生活にとつて重大であることといつた要素」をあげ、「このようなとき裁判所は、法律の設けた差別が合理的であるか否か単純に判断するのではなく、右の要素を考慮に入れて法律の目的や手段が合理的であるか否かに立ち入つて審査する手法を用いなければならない」とし「これが、憲法一四条について適用される厳格な合理性の基準である。」と述べる。

本件の判断も、以上のような合理性の基準によつて審査が行われるべきなのである。けだし、既に何度も繰り返し控訴人が述べたように、控訴人は全盲という重度の障害者であり、女性であり、そして何より多年、かつての日本の植民地から来住を余儀なくされ、低劣な労働条件と社会的差別と貧困の中での生活を強いられてきた在日朝鮮人の一員であり、戦後は、一方的に外国人とされ政治的発言権としての参政権をも奪われ、その意味で、「少数派」であり、「司法的救済に頼らざるをえない」度合は極めて高く、まさに「高度の司法的配慮」が要求される場合であること明らかだからである。

この点で参考になるものとして、前記のグラハム対リチャードソン事件判決(定住的外国人に対する福祉給付を拒否した州法を合衆国憲法修正一四条の法の下の平等保護条項に違反し違憲無効であるとしたもの)がある。右判決は、「平等保護原則の下でも区別に合理性があれば州は区別について広い裁量権をもつが、外国人たることを理由にする差別には本質的疑問がある。けだし外国人は分離し独立した少数者の好例ゆえ、高度の司法的配慮が必要であり、また、外国人も市民と同じ根拠で税金を納めている以上、税金の使途について、自国民を居住外国人より優先させる財政的に特別の利益があるという見解は不適切であり、まさに外国人も市民も平等保護条項にいう人であるから、福祉費用節約のためということで不公正な区別をすることを正当化することは出来ない。」とした。

その後、アメリカ合衆国では、右判決がその後の定住外国人の人権に関する一連の判決の先例となり、以来合衆国最高裁判所は、分散、孤立した少数者を社会の一般的な給付から排除する立法に嫌悪の念を表明してきたとされているのである。

またドイツ連邦共和国の判例にも、第二次大戦後に政治的理由により抑留されたドイツ国民または人種上のドイツ人に対する補償を行うことを定めた被抑留者援護法の適用について、スイス人ではあるが、ドイツで生まれ、ドイツ国民学校をおえて修業の上で靴職人となり、ドイツ人の女性と結婚した者が、二年間程ナチス親衛隊に服務したとしてドイツ降伏直後にソ連軍に逮捕されて約五年間の抑留後解放され、同法による補償を請求したところ、そのスイス国籍を理由に拒否された事案につき、一審、二審ともに行政裁判所で原告の請求を「公平の要請」から容認したものがある(ベルリン行政裁判所一九五八年六月五日判決。保護・社会事例判例集F―EVSE七巻六九ページ)。同判例は、「立法者が人種的ドイツ人でもない外国人に抑留補償請求権を認めていないということから、直ちに、外国人にたいする抑留補償の拒否が外国人にとつて不公平な苛酷さを意味する場合までも、外国人に抑留補償を与えるべきでないということになる訳ではない。……原告がスイス国籍であることは、必ずしも原告に対して公平の見地から裁量決定の枠内で抑留被害に対する補償を排除するものではない」としているが、そこで同判例は、原告スイス人が前述のように「生まれたときからドイツ語文化圏と関係をもつて生活していること、すなわち、過程、学校、徒弟そして職人時代を通してドイツで成長し、ドイツ婦人との結婚でその関係は一層確固としたものとなり、多年にわたるドイツでの滞在でその関係が強化されてきた」という事実を判断の基礎として強調しているのである。つまり、旅行者のようないわば一過性の外国人とは違うということを考慮している点が注目されるのである。

(2)  司法消極主義と司法積極主義

(ア)(ⅰ) 憲法が司法に与えた違憲審査権をどのように行使すべきかについては、理論的には、いわゆる司法消極主義と司法積極主義の二つの立場があると考えられている。

司法消極主義は、第一に裁判所は国会のように国民の意志を直接反映する機関ではなく、本来的に非民主的性格を有しているから、国民を直接代表する国会の制定した法律を簡単に違憲とすることは妥当ではないこと、第二に三権分立は各機関の相互不干渉を意味し、違憲審査権はその例外である以上、例外はあくまで例外として慎重に行使する必要があること、第三に憲法事件は往々にしてそれ自体政治問題であり、これを法律的に解決しようとすること自体が一の問題であること、第四に民主主義の原則を採用する我国にあつては国民の意志が最優先し、違憲の立法もそれが国民の多数意志の結果である以上、これを違憲とすることは民主主義の原則に反する(つまり、違憲立法は非民主的な裁判所により是正するのではなく、「投票箱と民主制の過程」によつて是正されるべきであるとする)こと等を論拠とする。

他方、司法積極主義は、憲法は民主主義の他に自由主義(人権保障)の原理をも採用し、これを十分に保障するためには裁判所はより積極的に乗り出す必要があるとし、しかも現代の社会状況下では民主の名にかくれてさまざまな権力操作が存在し、違憲立法の投票箱と民主制の過程による是正ということは、観念的理念というべく、審査権はより積極的でなければならないとする。

具体的な法律(それも多くの場合法律中の二、三の条文)の違憲判断とその是正を求める手段としては、その実効性は極めて疑問であり、かかる場合、裁判所が積極的に違憲とする以外にはこれを是正する手段は存在しないこと、憲法が自由主義原理(憲法保障)を採用し、かかる理念に基づいて審査権を裁判所に与えたことを考えると、自由主義をより擁護すべき必要のある場合には、審査権の行使を大幅に認めることもまた憲法自体が容認するところといわなければならないし、又、憲法はデモクラシーにも限界があることを承知の上で審査権を裁判所に与えたものと考えられるからである。

(ⅱ) もちろん、司法消極主義によるべきか司法積極主義によるべきかといつた二者択一の議論は無意味である。

国会や内閣の行為がわずかでも憲法の精神に違背していれば、裁判所は直ちにそれを違憲とすることができるとすれば、裁判所は三権分立構造において優越した地位を獲得することに至り、ひいては他の二権(国会・内閣)に対し君臨することになろうし、逆に違憲判断をできるだけ慎み、憲法違背が相当程度に達しなければ違憲とできないとすれば、他の二権の権能を「侵害」はしないであろうが、国民の人権に対する侵害は放置許容されることになり、それこそ憲法の精神に背く事態を招来しかねないからである。

よって、一般的に、消極主義、積極主義のいずれによるべきかという議論ではなく、問題となつている個々の立法や行政行為、社会的背景等を具体的かつ総合的に判断し、消極主義と積極主義の「合理的な使い分け」をすることが違憲審査権と三権分立、自由主義と民主主義の構造連関を矛盾なく解明するうえで相当であるとされ、そこで右消極主義、積極主義の「合理的な使い分け」の基準としては、当該「人権の憲法秩序における重要度」「立法府等の過誤を是正する手段の有無難易」及び裁判所の判断能力等であるといわれている。

(イ)(ⅰ) 憲法二五条の一項、二項を分離し救貧防貧を峻別することが不当であること、障害福祉年金は国民の生存権に直結するものであつて同条二項には「広汎な立法裁量」を認めるべき根拠は存在しないこと、すでに述べたとおりである。

(ⅱ) 本件で問題となつているのは憲法二五条だけではない。

国籍要件を設けるか否かということは、憲法前文の国際主義、憲法一一条の基本的人権の享有、憲法一三条の個人の尊重、幸福追及権、憲法一四条の平等権等に直接関係し、まさしく重要な人権が問題となつている場合であり、この点でも司法消極主義によるべきことは許されないのである。

(ⅲ) そして、国籍要件を設けるか否かという立法作用には、対象者たる外国人は(参政権が認められないことから)これに関与することができず、「投票箱と民主制の過程による是正」の最も困難な場合というべく、司法消極主義によるべき根拠は全くない。

(ⅳ) 被控訴人は、障害福祉年金の受給対象者を誰にするかということは、財政的基礎を必要とするものであるから、立法機関の自由裁量である、と主張する。

しかし、本件で問題となつているのは、財政的問題以前の問題である。

すなわち、外国人に対して生存権保障をする必要があるのかないのか、具体的には、日本国民に対して給付する障害福祉年金を、外国人(とくに在日韓国人)に対して給付しないとすることは、憲法の前文、一三条、一四条等に反しないのか、過去に外国籍にあつても、その後帰化した日本国民に対して給付しないとすることは憲法一四条に反しないか、という問題なのであつて、給付額をいくらにするかという以前の問題なのである。

個々に具体的な給付額をいくらにするかという場面では、国の財政事情等を考えればあるていどの立法裁量が認められる場面があることは、いちがいに否定できないかもしれない。

しかし、ここで問題となつているのは給付額をいくらにするかではなく、日本国民だけに障害福祉年金を給付し、外国人には全く給付しないということを、さらに日本国民であつても、帰化した日本国民については給付しない結果となることを、憲法上是認すべきかどうかということである。

ここでは憲法前文、一一条、一三条、一四条、二五条が直接問題となるのであり、立法機関に広い自由裁量を認めるべき場面ではないのである。

(ウ)(ⅰ) 以上のとおり、本件では司法消極主義によるべき事案でなく、司法積極主義によるべき事案である。

司法消極主義によるべき場面で、かつ立法機関に自由裁量の認められる場合であれば、立法機関が為した立法に対して一応の合理性があると推定され、従つて合憲性が推定されるということになり、その違憲を主張する側で立法府の裁量の幅を越えていることを立証しないかぎり合憲であるとする立場もある。

しかし、本件のように司法積極主義によるべき事案の場合は、右の合憲性の推定の原則は動かず、外国人のみを疎外し、あるいは帰化した日本人を疎外するという差別を設けることに仮に合理性があるとすれば、その合理性あることの根拠は右差別を設けた被控訴人側で具体的に主張立証しなければならないはずである。

ところが、原審はもとより、控訴審においても被控訴人は右の点を何ら主張立証しておらず、この一事のみによっても原判決は本来破棄されるべきである。

(ⅱ) 障害福祉年金制度に国籍要件を設けることの不当・不合理性は、すでに述べて来ているところであるが、なお、もし国籍要件を設けることを財政的な面から理由づけようとするのであれば、それ自体の当否は別論としても、少なくとも財政的な検討は必要不可欠のはずである。

すなわち、日本国民の予想受給者数を検討すると同時に、国籍要件がなければ障害福祉年金の対象となるべき外国人障害者の予想数、さらには本件控訴人のような帰化した障害者の予想数を調査し、検討するという作業が不可欠のはずである。それがなければ、予算上どんな問題になるか検討する前提を欠くからである。ところが、法の立案にあたつて、これらの点を調査した事実は見当たらず、その後も調査の形跡もない。

仮に、本件の問題が財政的・予算的問題と関連するという立場をとつても、立法にあたつて、この点の具体的検討は全くなされず、従つて一切の利益秤量もなされていないのである。

国籍要件を設けることの合理性を、財政的問題と関連させて立証することはできないと言わざるをえないのである。

(ⅲ) 国籍要件の不当性は、右のとおり明らかであるが、さらに、帰化したことにより現に日本国籍を有する控訴人に対し支給しないことの不合理性、及び国籍要件を立法により撤廃した後も支給を認めない昭和五六年六月一二日法八六号の改正の際の付則の規定の不合理性はより一層明らかである。

すなわち、無拠出の障害福祉年金は、拠出制だけを貫くと制度発足当時既に老齢、疾病又は死亡といつた事故が発生している者には、拠出の機会がなかつたため年金の保護が及ばないし、貧困のため拠出の資力に不足する者など支給要件を充たさない者に対しては、何らの給付が行われず、これらの者は、支給要件を充たした者が給付として得る国庫負担分を結果的に受けられなくなるが、これは制度設立の理念や公平感からみて不都合であるとされた結果、設けられたものである。

控訴人は帰化時まで制度に加入することは不可能であつたのであり、国籍を取得した段階で受給資格を取得できるものとしなければ、日本人と外国人の間ではなく日本国民同志の間で不当な差別を設けることになり、この不当性は、国籍要件が撤廃されたことによつてさらに拡大されているのである。

つまり、外国人であつても、昭和五七年一月一日以降には障害福祉年金を受給し得る者がでてくるにもかかわらず、幼年時に障害を負い、その時日本人であり、又、現時点においても日本人であつて、制度発足当時に国民年金に加入し得なかつた者が、障害福祉年金を受給できないという不当な差別を生じることになる。

原判決段階で、「外国人と日本人とは財政的な問題が絡むから、生存権保障の面では日本人には保障されても外国人に対しては保障されない場合がある」として日本人と外国人に差を設けていた被控訴人の論理からすれば、また、右立法の方向を「制度の根幹をゆるがす」として全面的に否定した被控訴人の立場からすれば外国人に対してすら保障される権利が、日本人には保障されないとするこの新しい立法の合理性をどのようにして是認することができるのであろうか。

前にもまして不当な差別は拡大しており、右立法を合理化し、合憲性を推定させる根拠は被控訴人からは全く示されていないのである。

(二) 被控訴人の主張(三)に対する反論

被控訴人は、「仮に控訴人に対して障害福祉年金を支給するとした場合」の三つの支給要件を想定し(後記3(三)参照。なお、右(三)における被控訴人の想定を、想定(1)、などという)、いずれの場合も不合理、不公平な問題が生ずる旨主張する。

そこで、右想定につき順次検討する。

(1)  想定(1)につき

被控訴人は、「二〇歳に達した日より前に廃疾の状態にある外国人が二〇歳に達した日以後に帰化した場合には、その時点で法別表に定める程度の廃疾の状態にあれば支給する」とすると「外国人が二〇歳に達した日以後に傷病にかかり、その後その者が帰化し、その時点で法別表に定める程度の廃疾の状態にあつても年金は支給されない」のと均衡を失すると主張する。

現行制度化では、右二つの場合には、ともに年金の支給はなされない。そして、被控訴人は、右二つの問題のうちの一つだけを解決するのは均衡を失い許されない、悪い状態か最善の状態かの二者択一しか道はなく、より良い状態というのは許されないとするのであるが、不思議な論理であり、更に言えば、本件の事案が右二者のうちの前者であることを考えると、被控訴人の主張は、後者の事案の訴が併合されていないかぎり、前者の問題だけを独立して判断することはできないというに等しく、ますます理解に苦しむものといわざるを得ないのである。

また後者の問題で、先ず検討すべきものは、外国人であつて二〇歳に達した者の拠出制年金制度加入の是非ということである。仮に外国人の加入は否定されてもやむを得ないという結論が出たとすれば、次に障害福祉年金については如何んという問題になるのである(これに対して、「二〇歳に達した日より前に廃疾の状態にある」ときは、外国人の加入を云々するまでもなく、日本国民であつても拠出制年金制度に加入できないのに、日本国民は初めから無拠出制の年金の対象となつているのである)。

(2)  想定(2)につき

被控訴人は「傷病の発生時期は問わず、帰化した時その傷病により法別表に定める程度の廃疾の状態にある外国人は、帰化した時その廃疾の法別表に該当すれば支給する」とした場合には、日本国民(二〇歳以上)の場合と均衡を失すると主張する。

しかし、右想定は粗雑であつて、この場合は、二〇歳未満のときの傷病によるものと二〇歳以上のときの傷病によるものとの二つの場合を含み、前者の場合は日本国民と何ら均衡を失することはなく、しかも本件で問題にされているのはまさに前者の場合なのである。

そして、二〇歳以上のときの傷病による場合についても、先ず検討さるべき問題は、外国人の拠出制年金制度への加入を拒否している現行制度の是非であつて、障害福祉年金の問題は、それが是とされたときにはじめてでてくる問題なのである。

(3)  想定(3)につき

昭和三四年一一月一日以前の傷病か以後の傷病かで支給、不支給を決定するというのは、被控訴人の右想定自体が全く根拠のない不合理なものであるから、均衡を失するのは当然である。

ところで本件審理の対象は想定(1)に該当するものであつて、これがその実施を許さないまでに不均衡、不合理な結果を生ずるものであるとは到底考えられないところである。

3  被控訴人の当審における主張

(一)  憲法二五条の性格

憲法二五条の法的性格は、いわゆるプログラム規定であり、この考え方は、いわゆる朝日訴訟における最高裁判所の判決において明らかとされていたが、またいわゆる堀木訴訟における同裁判所の判決においても踏襲されている。同条が現実的、具体的な請求権、即ち法的権利を想定したものではないことは明らかである。

(二)  被控訴人は憲法二五条の一項と二項とを分離する解釈を採つている。

なお、一口に生存権といっても、生活ができない状態にある者を「健康で文化的な最低限度の生活」の水準まで引き上げる場合と、既にその水準にある者をそれ以上の状態に向上させる場合とは、全く性格が異なる。その生存権の性格の差異に着目すれば、一項が「健康で文化的な最低限度の生活」水準に達しない状態にある者を、その「最低限度の生活」水準に達していない限度で、それに達するまで必要に即応して、生活保障をすべき国の責務を規定したものとし、二項は、「最低限度の生活」水準を維持ないし上回つている状態にあることを前提に、その水準をより上回る条件の維持・向上についての国の責務を定めたものと解することは極めて自然な解釈である。

同条を一体的に解する者は、一項は生存権保障の目的あるいは理念を宣言したもの、二項はその目的・理念の実現に努力すべき国の責務を定めたものであるとする。しかし、もしそうであるなら、既に人間としての「最低限度の生活」水準以上にある者(日本国民のほとんどがそうであると言つてよい)にとつて、同条は全く意味のない規定となるであろう。なぜなら、水準以上の者についていえば、国がそれより下の状態である「最低限度の生活」を目的として「社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努め」たところで、何らの利益を受け得ないことになるからである。

(三)  控訴人に対して障害福祉年金を支給した場合の不合理

整備法によつて改正される前の国民年金制度においては、控訴人に対して障害福祉年金の支給は行われないが、仮に控訴人に対して障害福祉年金を支給するとした場合の支給要件を想定すると、次のような支給要件が考えられる。

(1) 二〇歳に達した日より前に廃疾の状態にある外国人が二〇歳に達した日以後に帰化した場合にはその時点で法別表に定める程度の廃疾の状態にあれば支給する。

(2) 傷病の発生の時期は問わず帰化した時その傷病により法別表に定める程度の廃疾の状態にあれば支給する。

(3) 昭和三四年十一月一日以前の傷病により、法別表に定める程度の廃疾の状態にある外国人は、帰化した時その廃疾の法別表に該当すれば支給する。

以上のような支給要件が想定されるところ、そもそも、帰化というようなし意的事項を支給要件とすること自体、保険制度になじまないものであるが、それは別として、まず、(1)の支給要件により控訴人に年金を支給した場合次の者と均衡を失する。

すなわち、外国人が二〇歳に達した日以後に傷病にかかり、その後その者が帰化し、その時点で法別表に定める程度の廃疾の状態にあつても年金は支給されない。

(2)の支給要件により控訴人に年金を支給した場合、日本国民との均衡を失する。

すなわち、二〇歳以上の日本国民は、拠出制年金の被保険者であるから、一定の保険料を納付していない限り、法別表に定める程度の廃疾の状態になつても年金は支給されない。

(3)の支給要件により控訴人に年金を支給した場合、次の者と均衡を失する。

すなわち、昭和三四年一一月一日以後の傷病によつて法別表に定める程度の廃疾の状態にある外国人は、その後帰化しても年金は支給されない。

以上のように控訴人に障害福祉年金を支給できるような支給要件は、いずれも不合理なものとなる。

(四)  控訴人の主張に対する反論

(1) 控訴人の主張(三)(2)について

控訴人は、社会保障における世界的傾向からみて、障害福祉年金の受給資格に国籍要件を定めることは不合理である旨主張し、国際人権規約A規約九条(この規約の締約国は、社会保険その他の社会保障についてのすべての者の権利を認める)を引用している。しかしながら、ここにいう「認める」とは「国の国家、社会的政策により保護されるに値するものであるとの評価を確認する」という意味であり、締約国は積極的に社会保障政策を推進すべき責任があるとするものであつて、それによつて、直ちに「すべての者」に具体的権利が附与されるものではない。

また締約国の右責務は、「漸進的に達成」(同規約二条一項)することが許容されているのであるから、同規約締結の時点において、わが国の法令上外国人のかかる権利が認められていないとしても同規約に違反することにはならないものである。

(2) 同(3)について

ILO第一〇二号条約六八条一項は、「外国人居住者は、自国民居住者と同一の権利を有する。ただし、専ら又は主として公の資金を財源とする給付又は給付の部分及び過渡的な制度については、外国人及び自国の領域外で生まれた自国民に関する特別な規制を国内の法令で定めることができる。」と定めており、国籍要件を設けることは容認されているところである。

さらに、デンマーク等の諸外国においても年金制度に国籍要件を設けており、年金制度に国籍要件を設けることは比較法的観点からも充分是認されるところである。

(3) 同(5)について

社会保障制度の財源が租税制度に依拠している部分があるにしても、両者はそれぞれ制度目的を異にしており、そもそも両者は対価関係に立つものではないので、控訴人の主張は失当である。

(4) 同(6)について

整備法による改正前の法は、属人主義的な考え方であつたといえよう。しかし、国民年金を受給する権利は憲法二五条の保障する社会権の一つであつて、社会権については、「日本が社会国家の理念に立脚するとは、日本が何よりもまず日本国民に対してそれらの社会権を保障する責任を負うことを意味する。外国人も、もちろん、それらの社会権を基本的人権として享有するが、それらを保障する責任は、もつぱら彼の所属する国家に属する」(宮沢俊義・憲法Ⅱ新版二四一頁)との考え方から、国民年金制度対象者(被保険者)の範囲を日本国民としていたものである。

また、在外困窮邦人の保護に関する立法が極めて乏しいのは事実であるが、これは世界各国に共通していえることである。そしてまた、日本国政府としては在外困窮邦人の保護について、その在住国の政府がこれをなしてくれるものと期待しているというわけではない。自らの意思で外国に住む在外困窮邦人については、他の諸外国同様、現在のところ関知しないとする立場をとつているものであり、在外邦人については属地主義をとつているとする控訴人の主張は失当である。

さらに、社会保障について属地主義が優れているかどうかの点については、被控訴人もこれまで属地主義が優れていないと主張してきたわけではない。被控訴人は、社会権を保障する責任は、まず、自国民に対して負うものであるとしているだけである。そして、本件の争点は、いずれが優れているかどうかではなく、属地主義にしなければ、換言すれば、在日朝鮮人にも国民年金法の適用を認めなければ憲法二五条、一四条に違反するかという問題である。そしてこの問題は被控訴人が従来から主張してきているとおり、立法政策に属する問題であるから憲法には違反しないものである。

(5) 同(7)について

整備法によつて法の国籍要件は難民の地位に関する条約等への加入の日から撤廃されることとなつた。

そして控訴人は、法の国籍要件が撤廃されたことから右改正は立法府自らが国籍要件の存続は合理性を欠くものと認めたものである旨主張する。

しかしながら、法の国籍要件を撤廃したのは、それは合理性を欠くからではなく、「難民」すなわち「政治的意見を理由として迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であつて、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」(同条約一条A(2))等を保護しようとする同条約等へ加入したため、結果的に国籍要件が撤廃されただけである。すなわち、国籍要件が撤廃されたのは難民保護という人道的見地からなされたもので、一国の国民の福祉を図ることは、何よりもその所属する国の責任である、とする従来からの思想を何ら変更するものではない。

これは、整備法附則五項において法の国籍要件撤廃も遡及効がない旨明記されていることから明らかである。

なお、整備法による国籍要件の撤廃の遡及効がないことについては、難民も、その他の外国人も何ら差別しておらず、難民の中に仮に控訴人と同様の事情にある者がいたとすれば、その者には控訴人と同様に障害福祉年金は支給されないものである。

(6) 同(四)について、

仮に障害福祉年金が控訴人主張どおりの性質を有するものであり、その特殊性から国籍要件を設けることができないものであるとすれば、他の福祉年金(老齢福祉年金など)については国籍要件を設定しうることになるというのであろうか。

(7) 同(五)(1)について

控訴人は、在日朝鮮人の歴史的特殊性から、在日朝鮮人を日本国民と同様に取扱うべきである旨主張する。

しかし、控訴人が在日朝鮮人の一般外国人とは異つた事情が考慮されたものとする日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定四条は、「日本国政府は、次に掲げる事項について妥当な考慮を払うものとする。

(a) 第一条の規定に従い日本国で永住することを許可されている大韓民国国民に対する日本国における教育、生活保護及び国民健康保険に関する事項」

と定められ、生活保護及び国民健康保険に関する事項があげられてはいるが、国民年金の適用についてはのぞかれている。これは、在日朝鮮人の場合も外国在住の国民に対する生活擁護の責任は元来その本国政府が担うべきものであることを示すものである。

そもそも在日朝鮮人を日本国民と同様に扱うか、もしくは、他の外国人と同様に扱うかは立法政策の問題であつて、在日朝鮮人と日本国籍を有しない以上日本国民と同一に扱わねばならないとする論理的必然性はない。

昭和五六年六月一二日に法が改正され、昭和五七年一月一日に施行されるまでは、拠出制年金においても国籍が資格要件とされており、福祉年金が、国民皆年金の理想を早期に達成するために、拠出制年金の仕組から生じる間げきを埋めることを目的として、全額国庫負担による経過的・補完的制度として設けられたものであることから福祉年金においても国籍による制限を定めたものであり、この制限は合理的理由がある。

第三証拠《省略》

理由

一控訴人が、法八一条に基づく障害福祉年金の資格者であるとして、被控訴人に対し国民年金障害福祉年金裁定請求をしたところ、被控訴人が昭和四七年八月二一日本件処分をなしたところ、控訴人が、本件処分を不服として、大阪府社会保険審査官に対して審査請求をしたところ、同審査官が同年一一月三〇日同請求を棄却したこと、控訴人が社会保険審査会に対して再審査請求したところ、同審査会が昭和四八年七月三一日同再審査請求を棄却したこと、控訴人は、昭和九年六月二五日大阪市で出生したが、幼少の時罹患したハシカによつて失明し、法にいう廃疾認定日(法施行日)である昭和三四年一一月一日当時全盲であり法の別表に定める一級に該当する程度の廃疾の状態であつたこと、控訴人は、右廃疾認定日当時韓国籍にあつて日本国籍がなかつたが、その後日本人の夫と婚姻し、昭和四五年一二月一六日帰化によつて日本国籍を取得したこと、以上の事実については当事者間に争いがない。

二国民年金制度と障害福祉年金について

1  国民年金制度の沿革と仕組

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  公的年金制度は、人は老齢、廃疾、死亡などの事故によつて生活の安定が損われるおそれがあるにもかかわらず個々人では事故の発生前に十分な備えをしておくことが容易ではないので、かかる事故によつて生活の安定が損われるのに対処して、社会連帯の考えに基づき公的に救済を与え、もつて国民生活の安定を図ろうとする制度であるが、制度の有無、基本的構成、質的内容は、それぞれの国によつて、その経済、社会の状況、国民の意識などによつて一様ではない。

(二)  わが国の公的年金制度は、法が制定施行されるまでは、公務員及びこれに準ずる者や民間企業の被用者を対象とした各種年金制度(法五条一項各号に掲げる被用者年金各法参照)が存在していたが、これらの年金制度はいずれも一定の要件を具備した被用者を対象とするものであつて、農林漁業、商工業の各自営業者や零細企業の被用者等多数の国民は年金制度の適用対象外とされていた。

しかし、第二次世界大戦後の家族制度の崩壊、老齢人口の急増、社会保障意識の高揚、経済的発展などわが国における諸々の社会的要因を背景として、これまで年金制度の対象とされていなかつた国民にも年金による保護を及ぼそうとする国民皆年金への気運が高まり、昭和三二年から法の制定作業に入り、昭和三四年四月一六日法が制定され、同年一一月一日その一部が施行され、その後順次その余の部分も施行されるに至つた(昭和三四年法律一四一号附則一条参照)。

(三)  ところで、法は支給さるべき年金の財源を確保するため予じめ保険料を納付しておく制度、即ち拠出制年金制度(もつとも支給さるべき年金の一部は国庫負担である)を基本原則とする構成をとつているが、右制度を原則としたのは、① 老齢のように誰もが将来到達するものと予測し得る事態についてはもちろん、発生の有無などを予測し難い身体障害やその時期の不明な死亡についても、予め自力ででき得る限り準備しておくことが望ましいこと、② 無拠出制を基本とすると、支給すべき年金が全額国庫負担となる都合上、膨大な財政支出を要するのみならず、将来老齢人口が急増することに伴つて、財政支出の急激な膨張が避けられず、将来の国民に過重な税負担を強いる結果となるので、斯かる事態をつとめて避けるべきこと、③ 年金制度においては長期にわたる安定性と確実性とを備える必要があるため、国家の財政事情の影響を受けない財源を確保する必要があり、またその財源の運用益によって年金支給の充実を図ることができること、④ 従来の各種被用者年金制度がすべて拠出制を採つていること、などの理由によるものである。

しかしながら、拠出制年金制度においては年金の支給原因となる老齢、廃疾、死亡といつた事故が発生するまでに一定期間保険料が納付されていることなどが年金支給の要件とされることから、拠出制年金制度のみでは制度発足当時既に前記のような事故が発生してしまつている者には拠出の機会がなかつたことによつて年金の保護が及ばないこととなり、また貧困のため拠出の資力に不足する者は支給要件を充足し得ないために年金が支給されないこととなり、これらの者は年金に含まれる国庫負担部分についても支給を受けられぬこととなるが、これらの事態は国民年金制度創設の理念や公平感からみて不都合であると考えられた結果、これらの者にも一定の保護を及ぼすため支給金の全額を国庫負担とする無拠出制年金制度である福祉年金制度が設けられることになつた。そして福祉年金には、国民年金制度発足当時の経過的な措置として設けられたものと、拠出制年金を恒常的に補う措置として設けられたものとがあり、① 経過的福祉年金は、国民年金制度が発足した昭和三四年一一月一日当時、既に老齢、廃疾、母子(夫の死亡によつて母子の状態となつたこと。なお法制定当時準母子の状態については考慮されていなかつた)の事故が発生してしまつているために拠出制によつては年金の支給を受けられない者(施行当時の法としては八〇条一項、八一条一項、八二条一項参照)、初診日が法施行日(昭和三四年一一月一日)前であるか又は初診日が法施行日以後昭和三六年三月三一日(拠出制年金にかかる保険料の徴収が開始される日の前日)以前で、法施行日以後に廃疾の状態になつた者または法施行日以後昭和三六年三月三一日までの間に母子の状態になつた者(施行当時の法としては八一条二項、八二条二項参照)、及び昭和三六年四月一日当時五〇歳を超え強制適用被保険者とならない者であつて、法施行日後老齢になつた者、または右四月一日以後廃疾や母子の状態になつた者(施行当時の法としては八〇条二項、八一条三項、八二条三項参照)を対象としており、② 補完的福祉年金は、拠出制年金の被保険者ではあるが事故発生時までに拠出要件を充足していないことから年金の支給を受けられない者(施行当時の法としては五三条、五六条、六一条参照)、及び将来拠出制年金の被保険者となることが予定されてはいるが、被保険者になるまでに事故が発生し、右事故発生時までに拠出要件を充足し得ないことから、年金の支給を受けられない者(施行当時の法としては五七条参照)を対象としている。以上の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

2  障害福祉年金の仕組

ところで、法によれば次のことが明らかである。

国民年金制度の基本原則とされる拠出制年金制度については、他の公的年金制度によつて保護されない者であつて二〇歳以上六〇歳未満の日本国民(即ち日本国籍のある者)を被保険者とし(法七条)、拠出制年金制度が発足した昭和三六年四月一日当時五〇歳を超える者は被保険者とせず(法七四条)、そのうち同日当時五五歳未満の者だけが申出によつて被保険者となることができるものとしている(法七五条)。そして、被保険者は、一定の場合を除き(法八九条、九〇条)、保険料を納付しなければならず(法八八条一項)、被保険者期間等につき所定の要件を充たした者に対し、事故が生じた場合に年金が支給される仕組となつている。

障害年金は、老齢年金、母子年金などと並ぶ年金給付の一つであり、疾病にかかり、又は負傷した者が、当該傷病についての廃疾認定日において、その傷病により一定の廃疾状態にあることのほかに、一定の保険料納付済期間(法五条三項)等の要件を充足していることを支給要件としている(法三〇条一項)。その支給年金額は右の保険料納付済期間等の充足の程度、廃疾の程度によつて異なる(法三三条、三四条)。

これに対し、障害年金を補完する制度としての障害福祉年金は、① 傷病の初診日において被保険者(即ち拠出制年金の対象者)であつて、右同様廃疾認定日において、その傷病により一定の廃疾状態にありながら、もしくは廃疾認定日後一定の期間内に廃疾の状態となりながら、保険料納付済期間等の要件を充足していない者に対し、より緩やかな保険料納付済期間等の要件を課したうえで年金を支給する場合(法五六条、五六条の二)と、② 傷病の初診日において二〇歳未満であつたために被保険者となり得なかつた者が、その傷病により、二〇歳前または後に、一定の廃疾状態となつたことにより、二〇歳に達した日またはその後に年金を支給する場合(法五七条)とがあるが、いずれも廃疾認定日において日本国民でないときは支給されないものとされ、日本国籍のあることが支給要件とされている(法五六条一項ただし書)。そして支給年金額は廃疾の程度に応じて一定である(法五八条)。

本件で問題になる障害福祉年金は、法が施行された昭和三四年一一月一日当時二〇歳を超えている者が既に一定の廃疾の状態であるとき、法五六条一項本文の規定にかかわらず支給される(法八一条一項)経過的福祉年金であり、支給年金額は廃疾の程度に応じて一定である(法八一条一項、五六条、五八条)。

そしてこれらの障害福祉年金の支給に要する費用は、全部国庫が負担する(法八五条二項)。

三法八一条一項の障害福祉年金の支給が法五六条一項ただし書の国籍要件による制限を受けるかどうかについて

1  前項のとおり、法は、拠出制年金の被保険者を日本国籍のある者とし(法七条一項)、また補完的無拠出年金としての障害福祉年金の支給対象者を廃疾認定日に日本国籍のある者としている(法五六条一項)が、経過的無拠出制年金としての法八一条一項の障害福祉年金の支給対象者の国籍に関しては明示の規定をおいていない。しかし、国籍要件に関して法八一条一項の障害福祉年金を他の障害福祉年金と別異の扱いをする実質的な理由は発見し難いし、法八一条一項は「五六条一項本文の規定にかかわらず、その者に同条の障害福祉年金を支給する。」として、同項本文の要件を欠く場合にも同条に定める障害福祉年金を支給する旨定めてはいるが、同項ただし書には触れず、右ただし書の要件を欠く場合にも右障害福祉年金を支給する旨を定めてはいないことにかんがみれば、法八一条一項の障害福祉年金にも、法五六条一項ただし書による制限があり、廃疾認定日において日本国籍がない者には支給しないとするのが法の趣旨とするところであると解さざるを得ない。そして、右障害福祉年金の支給を受ける者についての廃疾認定日は昭和三四年一一月一日(法施行日)とされているから、右障害福祉年金は同日において日本国籍がない者には支給されないことになる。

2  また、わが国は、昭和五六年一〇月三〇日難民の地位に関する条約に、また昭和五七年一月一日難民の地位に関する議定書に、それぞれに加入したが、右難民の地位に関する条約等へ加入するのに伴い整備法が制定され、同法二条によつて法の一部が改正されて、法五六条一項ただし書が削除されたほか法七条一項及び八条のうちの各国籍要件部分、九条二号、五七条二項、五九条、六一条一項ただし書、六四条、同条の三・一項ただし書、七九条の二・一項ただし書、同二項ただし書、同五項が、いずれも削除され、右削除に関連する法の条項の整理が行われた。そして整備法は難民の地位に関する条約等がわが国について効力を生ずる日から施行されるものとされ(同法附則一項)、右条約等がいずれも昭和五七年一月一日わが国について効力を生ずるに至つたこと(昭和五六年外務省告示第三五九号、昭和五七年同省告示第一号参照)により、同日施行された。また同法は、その附則四項において「施行日においてこの法律による改正後の国民年金法第七条の規定に該当している者(日本国民である者を除く。)についてこの法律による改正後の同法第八条の規定の適用については、同条中「二〇歳に達した日又は日本国内に住所を有するに至つた日」とあるのは、「難民の地位に関する条約等への加入に伴う出入国管理令その他関係法律の整備に関する法律の施行の日」とする。」と規定し、またその附則五項において「この法律による改正前の国民年金法による福祉年金が支給されず、又は当該福祉年金の受給権が消滅する事由であつて、施行日前に生じたものに基づく同法による福祉年金の不支給又は失権については、なお従前の例による。」として、整備法による法の国籍要件に関する条項の削除の効力が整備法の施行日前に遡及しない旨の経過規定を置いている。してみれば、廃疾認定日である昭和三四年一一月一日において日本国籍を有しない者に対しては法八一条一項の障害福祉年金を支給しないとする法の趣旨はますます明確になつたというべきであり、右経過規定は整備法の施行日(即ち、法八一条一項の障害福祉年金に関するものとしては法五六条一項ただし書の削除の効力が生ずる日)である昭和五七年一月一日以後においても、従前と同様、右の者に対し障害福祉年金を支給しないことを確認したものというべきである。

3  そうすると、控訴人は、廃疾認定日である昭和三四年一一月一日において日本国籍を有しなかつた者であるから、法の規定に基づくかぎりは、法八一条一項による障害福祉年金の支給を受けられないことにならざるを得ない。

4  この点につき、控訴人は、法が被保険者集団を日本国民に限定したのは、日本国内に一時的に居住するだけの外国人については、保険料の掛け捨ての問題が生じ不適当であるので被保険者としないにとどまるものであるから、法との関係で日本国民というときには、定住外国人を含むものと解すべきであり、生活実態において日本国民と同視すべき者は法五六条一項ただし書の「日本国民でない」者には含まれないものと解すべきである旨主張する。しかし、法の立法過程において、一時的にわが国に居住するだけの外国人を被保険者集団に加えることが不適当であるとし、これを被保険者から除く旨の消去法的配慮がなされたとしても、それが当然にわが国に定住する外国人をも被保険者とする旨の積極的な配慮、ひいては法との関係で日本国民に含まれる者とする旨の積極的配慮がなされているとは言えないし、帰化によつて日本国民となる前の在日外国人の生活実態が日本国民と同視すべきものであつたという理由によつてはその外国人が法五六条一項ただし書にいう「日本国民でない」者に含まれないと解することができるものではない(いわゆる在日朝鮮人と法の国籍要件条項については後にもう一度触れる)。

5  控訴人は、また、控訴人の自然的な廃疾認定日は控訴人が失明した時点である一九三六年(昭和一一年)であり、その当時控訴人が日本国籍を有していたことを考慮すべきである旨主張する。

思うに、朝鮮人(日本と朝鮮との併合後においてわが国の国内法上で朝鮮人としての法的地位をもつた人)は、昭和二八年四月二八日発効した平和条約(昭和二七年条約第五号)二条(a)項の「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島、及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する。」との規定によりわが国が朝鮮を独立国家として承認し朝鮮に属すべき領土に対する主権を放棄すると同時に朝鮮に属すべき人(即ち前示の朝鮮人としての法的地位をもつた人)に対する主権を放棄したことによつて、個々人の意思のいかんにかかわらず、集団的かつ当然に、同日においてわが国の国籍を喪失したものである(最高裁判所昭和三六年四月五日大法廷判決民集一五巻四号六五七頁、同昭和四〇年六月四日第二小法廷判決民集一九巻四号八九八頁参照。なお、〈反証排斥略〉)ところ、控訴人は昭和九年六月二五日大阪市で朝鮮人として出生した(この点については当事者間に争いがない。そして、ここに朝鮮人とは法的には前示の朝鮮人としての法的地位をもつた人を意味するものと解せられる)ものであるから、右平和条約が発効した昭和二七年四月二八日当日において日本国籍を喪失したが、それまでは日本国籍を有する者であつたものというべきである。

しかしながら、法八一条一項は、拠出制年金制度の発足当時既に一定の廃疾状態となつている者には、保険料の納付の機会がなかつたことによつて、右廃疾について、拠出制年金の保護が及ばないことになることに対処して、右当時既に廃疾の状態にある者にも保護を及ぼすために採られた経過的な措置であるため、法施行日当日である昭和三四年一一月一日当日を基準として、それ以前になおつた傷病によつて、右当日に法の別表に定める一級に該当する程度の廃疾の状態にある者を対象として障害福祉年金を支給することにしているものであるから、法の趣旨は右対象者の全員について一律に廃疾認定日を昭和三四年一一月一日とするにあることは明らかであつて、その余の日を廃疾認定日とする法解釈をとる余地はないものというべきである。

6  控訴人は、更に、国際人権規約A規約の平等原則はそれ自体充分明確に規定されており、即時に裁判規範として機能するものであるところ、控訴人が現に日本国民であるにもかかわらず、廃疾認定日において日本国民でなかつたことだけを理由として障害福祉年金の受給資格を認めないのは、右規約二条二項にいう「国民的出身」による差別として条約違反となるから、本件処分は違法となる旨主張する。

しかし、同規約は、後記のとおりその内容がそのまま国内法と同様に通用せしめられる種類の条約ではなくして、その内容を実施するためには立法手続を要する種類の条約であつて、直接裁判規範とはなり得ないものであり、直ちに法の効力に影響を与えるものではないから、法に従つてなされた本件処分を違法ならしめるものではなく、控訴人の右主張は理由がない。

7  以上の次第で、法の国籍要件の定めに関する控訴人の解釈は採用することができず、法八一条一項の規定による障害福祉年金の支給については、法五六条一項ただし書の定める国籍による制限があり、廃疾認定日(法施行日)たる昭和三四年一一月一日において日本国民でない者には右障害福祉年金を支給しないとするのが法の趣旨であり、かつ、控訴人は右日時において法にいう「日本国民でない」者に該当する者であると解すべきものである。そして、被控訴人の本件処分は、控訴人が廃疾認定日たる昭和三四年一一月一日において日本国民でなかつたことを理由とするものであることは〈証拠〉によつて明らかであるから、国籍要件を設けた法の定めが違憲・無効でないかぎりは、被控訴人の本件処分は適法なものとなるというべきである。

四法八一条一項の障害福祉年金の支給につき国籍要件を付すことの合憲性について

1  控訴人は、法所定の国籍要件に関する規定及び整備法附則五項の規定は、憲法の前文第二段第二、第三文(即ち「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」の部分)、一一条(基本的人権の享有)、一三条(個人の尊重)、一四条一項(法の下の平等)、二五条(生存権)の各条項に違反するか、少くとも法八一条一項の障害福祉年金に関する法五六条一ただし書による制限及び右附則によつて維持される制限は憲法の右前文や右各条項に違反するか、控訴人に対し法五六条一項ただし書を適用した限りにおいて、及び右附則によつて右ただし書の適用が維持される限りにおいて、憲法の右前文や右各条項に違反するものであるから、本件処分は取消さるべきである旨主張するので、これらの点につき判断する。

2  憲法一一条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として現在及び将来の国民に与へられる。」と規定し、その基本的人権の内容は憲法第三章に定めるところであるが、同章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみを対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきところである(最高裁判所昭和五三年一〇月四日大法廷判決民集三二巻七号一二二三頁)。

3  ところで、法による拠出制年金及び法八一条一項の障害福祉年金を含む無拠出制年金は、法の「国民年金制度は、日本国憲法第二五条第二項に規定する理念に基き、老齢、廃疾又は死亡によつて国民生活の安定がそこなわれることを国民の共同連帯によつて防止し、もつて健全な国民生活の維持及び向上に寄与することを目的とする。」(法一条)との規定に照らし、憲法二五条の理念を具体化、現実化した社会保障施策の一であることが明らかである。

4(一)  そこでまず、このような社会保障施策の一環としての年金を受くべき権利が、憲法二五条の理念に照らしてわが国に在留する外国人に対しても当然に保障されるべきものであるか否か、すなわち、右保障を欠けば憲法二五条違反の問題を生ずることになるのか否かを検討する。

憲法二五条一項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定しているが、この規定は、いわゆる福祉国家の理念に基づき、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるよう国政を運営すべきことを国の責務として宣言したものであり、また同条二項は「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定しているが、この規定は、同じく福祉国家の理念に基づき、社会的立法及び社会的施設の創造拡充に努力すべきことを国の責務として宣言したものであり、かつ、同条一項は、国が個々の国民に対して具体的・現実的に右のような責務とされている社会的立法及び社会的施設の創造拡充により個々の国民の具体的・現実的な生活権が設定充実されてゆくものであることを規定したものであると解すべきである(最高裁判所昭和二三年九月二九日大法廷判決刑集二巻一〇号一二三五頁、同昭和五七年七月七日大法廷判決民集三六巻七号一二三五頁参照。)。そうすると、憲法二五条の規定は国権の作用に対し、一定の目的を設定し、その実現のための積極的な発動を期待するという性質のものであるということができる。

しかるところ、右規定にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的、社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、右規定を現実の立法として具体化するに当つては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門的技術的な考察とそれに基づいた政策的判断とを必要とするものであるから、右規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるを得ないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄であるといわなければならない(前掲昭和五七年七月七日大法廷判決参照)。そうとすれば、憲法二五条を受けた社会保障施策の一環としての法についても、その定めが、生存権の理念に照らして著しく合理性を欠き、明らかに立法府に与えられた裁量権を逸脱・濫用していると見られる場合において、はじめて違憲・無効の判断を受けることになるというべきである。

(二)  ある国が自国に居住する外国人一般に対し、自国民に対すると同様に、健康で文化的な最低限度の生活を営むことを保障することは望ましい事態であるということができる。しかし、現在の国際社会において、世界各国が右のような保障をなす責務を負うことが普遍的な法原理となつており、もしくは右のような責務を負うべき旨の国際法規ないし国際慣習法が成立しているものとは認め難い。むしろ、〈証拠〉、後記の条約・各宣言等及び当裁判所に顕著な事実を綜合すると、一国の国民の福祉を図り生存権(社会権)の保障をなすことは先ずその者が属している国の責任であつて他国の責任ではないとの原則は、今なお世界において通用性を持つていて、世界各国は社会保障に関しこの原則を前提としつつ国家間の交渉を行いあるいは条約を締結しており、社会保障の先進国においても相互主義の適用のある場合を除いて公的年金制度の対象者が自国民に限つている事例を見ることができるから、このことはわが憲法の解釈にあたり当然考慮に入れざるを得ない。日本国憲法はすぐれて平和主義、国際協調主義、人権尊重主義をとつているけれども、このことから直ちにわが国が在日外国人一般に対して自国民と同程度の社会保障上の権利を保障する責務を負うことになるとは解し難く、控訴人の援用する憲法前文第二段第二、第三文も国政の指導理念とはなるがわが国が右のごとき責務を負うことの法的根拠となるものではない。ただ、憲法九八条は、日本国が締結した条約及び確立された国際法規はこれを誠実に遵守することを必要とする旨定めているから、わが国が条約等により特別に法的義務を負う場合はこの限りでないというべきである。そうとすれば、わが国が、憲法上、まず、健康で文化的な最低限度の生活を営むことを保障する責務を負う者は日本国民であつて外国人ではなく、外国人に対しては、条約の締結等の事由が生じてはじめて右責務を負うことになるといわなければならない。

(三)  前述のとおり、外国人も基本的人権の享有を妨げられず、権利の性質上日本国民のみを対象としているものを除き日本国民と同様の権利を有すべきものではあるが、わが国が健康で文化的な最低限度の生活を営むことを保障する責務を有する者の中に外国人は含まれていないと解すべきこと右のごとくであり、かつ、当時国民年金に関してわが国に在留する外国人を日本国民と同様に処遇すべき旨の条約等が存在しなかつた以上、国民年金に関する権利がわが国に在住する外国人に当然に及ぶ性質の権利であるとはいえない(なお、わが国に在留するアメリカ合衆国の国民については、法の適用上わが国の国民と同様に扱われるべきものとされるが、それは昭和二八年一〇月三〇日わが国について効力の生じた日本国とアメリカ合衆国との間の友好通商航海条約の三条二項の規定に基づきわが国の国民と同じ待遇が与えられることによるものである)。

(四)  以上の諸点にかんがみると、法が国民年金の対象者を日本国民に限り外国人に及ぼさなかつたことが憲法二五条の理念に反するもの、もしくは立法府が裁量権を逸脱又は濫用したことによるものということはできず、むしろ、法の国籍要件の定めは国会の裁量の範囲内のものであるということができる。また、右の定めは、外国人の基本的人権を認めず、あるいは外国人を個人として尊重しないことになるものではない。

5  次に、控訴人は、障害福祉年金を、一般の日本国民には支給しながら、外国人殊にいわゆる在日朝鮮人には支給しないこと、更に控訴人のように少なくとも日本に帰化した者に帰化した後も支給しないことは、憲法一四条一項に違反する旨主張するので、検討する。

(一)  憲法一四条一項は、直接には日本国民を対象とするものであるとはいえ、その認める法の下の平等の原則は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても及ぶべきものと解するのが相当であるが、法の下の平等の原則は、現実の具体的な人間の間に存する差異を一切無視した絶対的な平等の取扱を要求するものではなく、事柄の性質に応じて日本国民と外国人との間あるいは日本国民相互の間に一般社会観念上合理的と認められる差別を設けることは、なんら法の下の平等の原則に反するものではない。

(二)  ところで、障害福祉年金の支給については、法八一条一項によるものをも含めて、法五六条一項ただし書により、廃疾認定日に日本国籍がある者とそうでない者との間に差別が認められているとみるべきことは、前記のとおりである。

しかし、この日本国民と外国人との差別的取扱が必ずしも不合理なものとはいえないことは、前に詳細に説示したところであり、日本国籍を有するか否かの判断時点を廃疾認定日(法八一条一項の障害福祉年金については法の施行日)に固定することも、事務の画一的処理のための技術的配慮によるものとして合理性を有するものといえる。

(三)  してみると、前記差別は法の下の平等の原則に反するものとはいえず、控訴人の主張は理由がない。

(四)  控訴人は、この点に関連して、在日朝鮮人は外国人の中でも特殊な地位を占める旨主張する。

いわゆる日韓併合後、朝鮮人は大日本帝国臣民(但し、朝鮮戸籍令の適用を受ける者)として遇せられ、多数の朝鮮人が来日し、また第二次世界大戦後我が国が平和条約を締結したことによつて、前示のとおり朝鮮人が日本国籍を喪失した後にも多数の朝鮮人が独立後の朝鮮へ行かずにわが国に定住して生活していることについては公知の事実であり、また当事者間に争いのない前示の事実と原審及び当審における控訴人本人尋問の結果を総合すれば、控訴人の生活実態として主張するところにほぼ副う事実が認められる。そうだとすれば、いわゆる在日朝鮮人は一般外国人とは異つた特殊な立場を有する者であることはこれを否定することができない。

しかしながら、それだからといつて、在日朝鮮人を他の外国人から区別し、法五七条一項ただし書にいう「日本国民でない」者に含まれない者、すなわち日本国民であるとするのは、法解釈の限界を超えることになるものと考えられる。また、右のような立場を有する者に対しては、本人の利益のためには、努めて日本国民と同様の処遇をなすことが人権尊重の見地から望ましく、昨今において国際社会が進もうとしている方向にも副うことになるけれども、このことから直ちに裁判所が立法府の定めた国籍要件条項に対して無価値の判断をなし得るものではない。日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との協定(昭和四〇年条約第二八号)においても、同協定が多年の間わが国に居住している大韓民国国民がわが国と特別な関係を有するに至つたことを考慮し、これらの大韓民国国民が日本国の社会秩序の下で安定した生活を営むことができるようにすることが、両国間及び両国民間の友好関係の増進に寄与することを認めて締結されたものであるにかかわらず、わが国の政府が妥当な考慮を払うものとされている事項の中に、わが国に永住することを許されている大韓民国国民に対するわが国における教育、生活保護及び国民健康保険に関する事項が含まれてはいるが、国民年金に関する事項は含まれていない(同協定四条(a)項参照)ことに照らしても、右国籍要件条項が憲法上の平等原則に違反し、ないしは法律としての効力を左右される程度に不合理性を有するものとはいえない。

(五)  控訴人は、更にこの点に関連して、法が法八一条一項の障害福祉年金につき、一律に廃疾認定日を法施行日当日たる昭和三四年一一月一日とし、その日に日本国籍を有する者に限り障害福祉年金を支給する旨定めていることは不合理である旨主張する。

しかし、無拠出制年金(福祉年金)制度が拠出制年金制度による保護を受けられない者を対象としたものであることにかんがみれば、法の福祉年金の受給権の発生時点を老齢、廃疾、死亡といつた事故の発生時点に求めるのはいわば当然のことであるし、前示のとおり福祉年金の受給権者を日本国籍を有する者に限ることが是認される以上は、その日本国籍を有することを要する日を受給権の発生する廃疾認定日と定めることが不当となる理はない。そして、法八一条一項の障害福祉年金が、拠出制年金制度の発足当時既に一定の廃疾の状態にあるために拠出要件を充足し得ないことによつてその廃疾につき拠出制年金による保護が及ばない者に対して特に保護を及ぼす経過的措置たる制度である以上、その支給要件に該当する者について一律に廃疾認定日(即ち事故発生日)を法施行日当日である昭和三四年一一月一日として、その日に受給権が発生すると定めることには相当な理由があり、また右障害福祉年金の受給権者が日本国民である者に限られる以上、日本国籍を有することを要する日を右受給権の発生する日である昭和三四年一一月一日と定めることには合理的な理由があるものというべきである。そうだとすると、控訴人の右主張は理由がない。

(六)  控訴人は、また、整備法附則四、五項の違法性を主張する。

しかし、これら附則各項は、法律の時に関する効力についての基本原則である法律不遡及の原則を念のために規定したにすぎないものであると解せられる(〈証拠〉中に引用された立法当局者の解説もその趣旨であることを示している)。控訴人のいわんとするところは、整備法附則で遡及効を規定すべきであつたのにそれをせずして右のような規定を置いたことが難民の地位に関する条約、国際人権条約A規約、心身障害者対策基本法等に反するという点にあると思われるが、その点は正に立法裁量に属する問題であつて、前記のような法が国籍要件を設けていたことの合理性を考慮し、かつ難民の地位に関する条約の締結とそれに基づく整備法による右国籍要件の撤廃は難民保護という人道的見地からなされたものであること、法律は不遡及が基本原則であることなどを勘案すると、右の立法裁量が裁量権の逸脱であるとか濫用であるとかは到底いい得ない。控訴人の右主張は理由がない。

(七)  控訴人は、更に、法施行日当日たる昭和三四年一一月一日当日日本国民でなく、その後に帰化によつて日本国民となつた二〇歳以上の者に障害福祉年金が支給されないことは不合理であり、不当な差別である旨主張する。しかし、法八一条一項の障害福祉年金が法五六条一項ただし書によつて廃疾認定日である昭和三四年一一月一日において日本国民ではない者に支給されないものとされた理由が前示のとおりである以上、同日当日日本国民ではなく、同日より後に帰化によつて日本国民となつた二〇歳以上の者に右障害福祉年金が支給されないことについては合理的な理由があり、またそのことは整備法の施行後において同法附則五項の規定が置かれたことによつても変りはないものであるから、右同日において法の別表に定める一級に該当する程度の廃疾の状態にあつても、同日当日日本国民ではなくその後(即ち昭和四五年一二月一六日)帰化によつて日本国民となつた控訴人に対し右障害福祉年金を支給しないことによつて元からの日本国民(即ち、ここでは昭和三四年一一月一日当日に二〇歳以上の日本国民であつて、同日において右廃疾の状態にあつた者を意味する)との間に差別が生じたからといつて、この差別が不合理な理由によるものということはできない。よつて、右主張も採用し難い。

6  控訴人は、右のほかにもなお、法八一条一項の障害福祉年金が控訴人に支給されないのは不当かつ不合理であるとして諸般の角度から詳細な主張をなし、法の国籍要件条項及び本件処分が違法である旨を強調するので、前の説示と一部重複する面もあるが、控訴人の指摘する諸点について更に判断を加える。

(一)  控訴人は、障害福祉年金には、稼働能力の制約又は喪失に対する補償、補完的意義(いわゆる公的扶助のひとつの場合としての意義)、現実の差別、不平等の存在に対する経済的側面からする補償的意義(「福祉」の具体的内容のひとつとしての意義)、生活的、文化的な面で享有できない分野について、そのマイナス分を別の分野で補完しようとすることについての経済的補償というべき意義、という三つの側面が考えられるが、これらはいずれも国籍のいかんとは全く関係がなく、まして過去の国籍がどうであつたかということとは全く関係がないものであるから、障害福祉年金に国籍要件を設けることは不合理である旨主張する。

心身障害者に対する国の責務の重大性はいうまでもないところであり(心身障害者対策基本法参照)、社会保障ができる限りわが国に在留する外国人に対しても及ぼされることが望ましいことも前記のとおりであるが、ここでの問題は障害福祉年金に国籍要件を設けることに憲法上無視しえない立法裁量権の逸脱・濫用とみられる不合理性があるか否かであつて、その然らざることは前記のとおりであるから、控訴人の右主張は理由がない。

(二)(1)  控訴人は、社会保障の権利に対する国籍による差別は、憲法前文第二段第二、第三文の法的意味に反し、世界人権宣言二二条、二五条、国際人権規約A規約九条、ILO第一〇二号条約(社会保障の最低基準に関する条約)六八条、ILO第一一八号条約(社会保障における内国民及び非内国民の均等待遇に関する条約)、西暦一九七五年(昭和五〇年)一二月九日第三〇回国連総会で採択された「障害者の権利に関する宣言」、難民の地位に関する条約に反するのみならず、心身障害者対策基本法(昭和四五年法第八四号)の目的にも反する不合理なものである旨主張する。

(イ) 控訴人の指摘する各条約及び宣言(なお、ILO第一一八号条約、第三〇回国連総会で採択された宣言の存在については、〈証拠〉によりこれを認める)によれば、現今の国際社会においては、たしかに社会保障については国籍による差別的取扱の撤廃を目指す傾向にあることが認められる。

しかしながら、ILO第一〇二号条約は六八条一項ただし書において「専ら又は主として公の資金を財源とする給付又は給付の部分及び過渡的な制度については、外国人――(中略)――に関する特別な規則を国内の法令で定めることができる。」としており、難民の地位に関する条約二四条は、その一項において、「締約国は、合法的にその領域内に滞在する難民に対し、次の事項に関し、自国民に与える待遇と同一の待遇を与える。」とし、「次の事項」のうち(b)において「社会保障(業務災害、職業病、母性、疾病、廃疾、老齢、死亡、失業、家族的責任、その他国内法令により社会保障制度の対象とされている給付事由に関する法規)。ただし次の措置をとることを妨げるものではない。」とし、右の「次の措置」のうち(ⅱ)において「当該難民が居住している当該締約国の国内法令において、公の資金から全額支給される給付の全部又は一部に関し及び通常の年金の受給のために必要な拠出についての条件を満たしていない者に支給される手当に関し特別の措置を定めること。」としていることからすれば、右各条約は自国民と他国民とを区別することを全く禁止しているものではないことが明らかであり、国際社会における法意識が両者の差別的取扱を全く容認しない段階に立ち至つているとは認め難いところである。

(ロ) 次に、わが国は、昭和五三年(西暦一九七八年)五月三〇日国際人権規約A規約に署名し、昭和五四年(西暦一九七九年)六月二一日批准書を国際連合事務総長に寄託した(同規約二六条二項参照。なお、わが国内では同年八月四日条約第六号として公布された)ので、同規約はわが国については同年九月二一日効力を生ずるに至つた(同規約二七条二項参照)のであるが、同規約九条においては「この規約の締約国は、社会保険その他の社会保障についてのすべての者の権利を認める。」と規定しているところである。

しかしながら、同規約は、「この規約の締約国は、立法措置その他すべての適当な方法によりこの規約において認められる権利の完全な実現を漸進的に達成するため、自国における利用可能な手段を最大限に用いることにより、個々に又は国際的な援助及び協力、特に、経済上及び技術上の援助及び協力を通じて行動をとることを約束する。」と規定し(同規約二条一項)、同規約の締約国は同規約において認められる権利(同規約九条所定の権利を含むことはもちろんである)の完全な実現のためには、立法措置その他すべての適当な方法(右方法とは立法措置に相当するものを意味するものと解せられる)によることを前提としていること、及び右権利の完全な実現が漸進的に達成されることが予定されていることが明らかであるから、同規約において認められる権利の完全な実現のためには、同規約の締約国内において立法措置(右立法措置のうちには、既に施行されている法律の改正((但し、同規約五条二項の制約を超えるもの))を含むことはもちろんである)がとらるべきものではあるが、同規約において認められる権利についての諸規定が、そのまま同規約の締約国内において既に施行されている法律や、右法律に基づいてなされた処分の効力を判断する基準となるものではない。

なお、法の施行は、同規約がわが国について効力を生ずる前のことであるから、わが国が同規約に違反して法を制定したと言えないことはもちろん、前示のとおり、同規約において認められる権利の完全な実現は漸進的に達成されることが予定されているのであるから、わが国が同規約がわが国について効力を生じた後直ちに法の国籍要件に関する条項を削除する旨の改正をしなかつたからといつて、同規約に違反するものであるとは言えない。

(ハ) 更に、わが国は、ILO第一〇二号条約の批准書を昭和五一年二月二日国際労働事務局長に寄託し、これによつて、同条約は昭和五二年二月二日わが国について効力を生ずるに至つた(同条約七九条三項参照)。しかし、わが国が同条約二条(b)項の規定に基づいて義務を受諾するものとして指定した部は、同条約の第三部から第六部までであつて、「外国人居住者に対する均等待遇」を規定する第一二部(第六八条の規定のみから成つている)を指定していないのであるから、わが国が同部(従つて六八条)に違反しているとは言えない。

(ニ) 控訴人は、更に、法の定めは心身障害者対策基本法(昭和四五年五月二一日施行)に違反する旨主張する。しかし、同法三条は「すべて心身障害者は個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有するものとする。」と規定し、心身障害者を日本国民に限定しているものとは解し得ないが、同法一条は「この法律は、心身障害者対策に関する国、地方公共団体等の責務を明らかにするとともに、心身障害者の発生の予防に関する施策及び医療、訓練、保護、教育、雇用の促進、年金の支給等の心身障害者の福祉に関する施策の基本となる事項を定め、もつて心身障害者対策の総合的推進を図ることを目的とする。」と規定し、同法三条は「国及び地方公共団体は心身障害者の発生を予防し、及び心身障害者の福祉を増進する責務を有する。」と規定し、同法八条は「政府は、この法律の目的を達成するため、必要な法制上及び財政上の措置を講じなければならない。」と規定しているところからすれば、同法は同法施行後の心身障害者対策の基本理念に基づく国や地方公共団体の責務を規定したものであつて、同法の諸規定が既に施行されている他の法律の規定や同法律に基づく処分の効力を判断する基準となるものであるとは言えない。従つて既に施行されている法の国籍要件に関する条項が、右基本法三条や二〇条などに違反する効力のないものということはできない。

(ホ) 控訴人は、そのほか、社会保障上の権利についての国籍差別は憲法前文第二段第二、第三の文法的意味に反する旨主張するが、この点についてはすでに判断したところであり、そこに謳われている理念が直ちに法の効力に影響を与えるものと解することはできない。

(ヘ) 以上のとおりであるから、憲法前文、各条約、宣言、心身障害者対策基本法等に照らし法の国籍要件の定めが違法であるとの論旨は理由がない。

(2)  控訴人は、わが国に居住する外国人は、参政権を認められず、徴税に対する手続的民主主義の保障である代表機関を通じての同意の機会のないまま、一方的権力的に課税されているものであるから、社会保障の適用にあたつては、少くとも同じ納税義務を負担する日本国民と同程度の権利が保障されるべきであつて、右保障が日本国民に限られるとされるのでは著しく公平を欠くものであり、これは在日朝鮮人などにとつてはなおさらである旨主張する。

しかしながら、租税は、国がその経費一般にあてるための財力調達の目的をもつて、その権力に服するすべての者に対し、法の定める一般的標準により、担税力に応じ均等に賦課する金銭的給付であつて、社会保障とは制度目的を異にするものであり、納税者のなす給付と社会保障上の給付とは直接対応関係に立つものではないのみならず、租税を負担する外国人には社会保障上必らず自国民と同様の社会保障をなすべきものとする国際上もしくは国内法上の法原則ないし法慣習が存在するものとも認め難いところであるから、控訴人の右主張も採用し難い。

(三)  控訴人は、法八一条一項の障害福祉年金について、日本国籍を有することが必要であつたとしても、それを廃疾認定日(殊に、本件についての廃疾認定日は法施行日当日であつて便宜的な擬制に過ぎず、何ら合理的な根拠はない)の時点において問う必要はなく、支給要件があるのであれば日本国籍を取得することによつて受給権が発生するものとすれば足り、その方が合理的であり公平である旨主張する。

しかしながら、法八一条一項の障害福祉年金の支給を受けるについて、廃疾認定日たる昭和三四年一一月一日当日に日本国民であることを要することにしたことについては、前示のとおり合理的な理由があるから、控訴人の右主張は失当である。

(四)  控訴人は、わが国の国籍法は、同法五条の例外はあるが、帰化を求める外国人が「二〇歳以上で本国法によつて能力を有すること」を帰化の原則的要件の一とし、未成年者の帰化を認めない立場にあることから、帰化によつて日本国民となつた者でも、未成年の間に廃疾認定日のあつた者は、いわゆる「補完的」障害福祉年金の制度の適用を受け得ないこととなり、同じ日本国民を過去の経歴によつて差別することになる旨主張する。

しかしながら、前示のとおり、障害福祉年金の受給権の発生する日が廃疾認定日であることから、同日に日本国民であることを求めることがむしろ合理的であり、同日に外国人であつて日本国民でなかつたため、右福祉年金が支給されないことは当然のことであり、また外国人は帰化によつて日本国民となつた時以後は日本国民として処遇され、法所定の年齢区分に応じて拠出制年金や無拠出制年金(福祉年金)の各対象者として扱われるのであるから、控訴人の右主張は失当である。

(五)  控訴人は、元からの日本国民であつても未成年者であれば拠出制年金の加入義務(拠出義務)がないにもかかわらず、右義務のない間に障害者となつた(即ち保険事故が発生した)ときには、成年に達することにより障害福祉年金を受給し得るのに、右福祉年金の受給理由である傷害が拠出制年金への加入資格がない間に生じたという点では未成年者の場合と同一であるのに、現に日本国民である控訴人には右福祉年金が支給されないのは不合理である旨主張する。

しかしながら、控訴人に法八一条一項の障害福祉年金が支給されないのは、廃疾認定日である昭和三四年一一月一日において日本国民ではなかつたからであつて、拠出制年金への加入資格がなかつたことによるものではないのであるから、控訴人の右主張は失当である。

7  以上のとおりであつて、法八一条一項の障害福祉年金が法五六条一項ただし書によつて日本国民ではない者に支給されないものとされていることや、整備法による法の国籍要件に関する規定の削除の効力が整備法の施行日より前に遡及しない旨を明記した同法附則四、五項の規定が置かれたことや、右障害福祉年金が元からの日本国民には支給されるが、廃疾認定日である昭和三四年一一月一日より後に帰化によつて日本国民となつた者には支給されないことは、それぞれ合理的な理由があり、いずれも憲法の前文第二段第二、第三文及び一一条、一三条、一四条一項、二五条の各規定に違反するものではなく、また、条約その他の国際法規に違反するものでもない。ただしかし、前述のように、自国に居住する外国人に自国民に対すると同様の社会保障上の待遇を与えることが望ましい施策であることは明らかであり、控訴人らが国籍要件に関して指摘するところの多くは立法上行政上考慮に値いする事項であると思料され、現に問題の国籍要件条項は先般の難民条約の批准に伴なう法の整備によつて撤廃されたのであるけれども、これらのことは、結局、本件で問題になつている法の規定の効力に影響を及ぼし、本件処分を違法ならしめる事由となるものではないと判断した次第である。

五そうすると、被控訴人のなした本件処分は適法であるというべきであり、控訴人の請求を棄却した原判決は結論において相当であつて、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担については行政事件訴訟法七条、民事訴訟法九五条八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(今中道信 露木靖郎 齋藤光世)

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